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植田朝日にとってのサッカー日本代表 

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植田朝日

植田朝日Asahi Ueda

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photograph byTadashi Shirasawa

posted2018/05/30 10:00

植田朝日にとってのサッカー日本代表<Number Web> photograph by Tadashi Shirasawa

カープのハッピを着たおじさんが。

 実はこの頃、大学生だった僕はドイツに留学中で、学校を休み、日本代表のアジアカップ応援のため一時帰国していたんです。決勝まで滞在すると決めたものの、お金もなくいる場所がない。そこで、試合のない日は市内にあるお好み村に行ってサッカーの話をしたり、太鼓を叩きながらニッポンコールをしたり、「次の日本代表の試合は(アジアカップの)決勝戦なんですよ。みんな応援しにきてください」と歩き回ったりしていたんです。「日本代表のグッズはないけどこれでいいよな?」と広島カープのハッピを着て代表の試合に行くおじさんがいたり、決勝の試合後には、「お兄ちゃんが言ったから見に行ったよ」という人がいたり……。

 実際、決勝戦はチケットが売り切れ、スタジアムは超満員に。それまでサッカーでスタジアムが満員になることなんてほとんどなかったですし、“人が動く瞬間”を目の当たりにして、感慨深いものがありましたね。日本代表はうまくいくんじゃないか、日本のサッカーの歴史が変わるんじゃないかと思い始めたのはちょうどこの頃からですね。

 また、この大会まで基本的に選手の応援歌は存在していなかったんですよ。ゴンさんの「オ~中山」などを始めとした選手個々の歌や、“ゴンゴール”という言葉ができたのも実はこの大会が初めて。もちろん、スタジアムで1000人以上の人が歌を歌って応援するのもこの時が初でした。この'92年はサポーターというものが確立された年になったのではないでしょうか。

カズさんが電話で話してくれたこと。

 印象深いのは、決勝戦の後、カズさんがわざわざ電話をくれて、「日本じゃないと思った。今日の応援はすごかったよ」と言ってくれたことですね。当時は自分よりもみんな年上だったこともありましたが、選手から逆にモチベーションをもらっていたような気がします。

 アジアカップ決勝のサウジアラビア戦は満員の広島ビッグアーチでの戦いとなりました。'85年メキシコW杯予選の日韓戦と'87年のソウル五輪予選の中国戦で国立競技場が満員になった記憶はありましたが、この時、まさかサッカーでスタジアムが満員になるなんて想像もできませんでした。

 さらに言及すれば、この大会が始まるまで、日本がまさか決勝まで進出するとは思ってもみませんでした。「まさか」の出来事が続き、スタジアムがこれまではありえない空気になっていたと感じました。空席が目立ったUAEとの初戦から2週間も経ってもいなかったからですね。わずか10人の日本のサポーターが数千人にまで膨れ上がった。本当に信じられない光景が眼前に広がっていました。

【次ページ】 代表は“俺たちのチーム”でないと。

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