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『アイ、トーニャ』は悲しくて笑える。
アメリカ下層階級とフィギュア界。
posted2018/05/20 08:00
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph by
AFLO
映画『アイ、トーニャ』に出てくる登場人物は、ひっきりなしにタバコを吸い、男たちはビールを飲む。
主人公のトーニャ・ハーディングはリンクで演技をする直前に、スタンドの酔っ払いから「労働者・オン・アイス」と野次られる(この字幕スーパーには笑った)。
若くして結婚した男はろくでなしで、暴力を平気でふるうDV野郎。ただし、トーニャも反撃することを厭わない。
絵に描いたような"アメリカの下層社会”。
下層から上流社会の象徴、フィギュアスケートの世界に殴り込んだことで、トーニャ・ハーディングの人生は映画化されることになった。
1994年の冬。リレハンメル・オリンピックを前に、世界は「ナンシー・ケリガン殴打事件」に釘付けになった。メダル候補が暴漢に襲われるということ自体、前代未聞の大事件だったが、実行犯がライバルのトーニャ・ハーディングとつながっていたことから、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
毛皮コートの世界と労働者階級。
トーニャ・ハーディングの半生を描いた『アイ、トーニャ』は“怪作”である。
この映画はトーニャの生い立ちから始まり、お粗末極まりない殴打事件の背景を描き(これがとにかく笑える)、リレハンメル・オリンピックまで一気に突っ走る。
とにかく、全編が毒に満ちあふれている。
幼少期から運動能力に秀でていたトーニャは、リンクでタバコを吹かす母親に連れられ、トップコーチの門を叩く。
フィギュアは毛皮コートの世界。トーニャが生きる世界とは水と油だ。大会での演技前、ひとりロッカールームから離れ、通路でタバコを吹かすトーニャの描写は象徴的である。
そして私にとってもっとも印象的だったのは、アメリカでは「レッドネック」や「ヒルビリー」と呼ばれる労働者階級の描き方だ。
冒頭に書いたようにタバコとビール、そして低賃金の現実。トーニャ・ハーディングが1992年のアルベールビル・オリンピックの後、お金がなくなってウェイトレスをしていたことを私はこの映画で初めて知った。