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月給5万円で始まった甲府での17年。
石原克哉は“チームの母”だった。

posted2017/12/26 11:00

 
月給5万円で始まった甲府での17年。石原克哉は“チームの母”だった。<Number Web> photograph by Getty Images/J.LEAGUE PHOTOS

最終戦を終えて挨拶する石原克哉に、サポーターは一面の「7」で答えた。この景色を彼が忘れることはないだろう。

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渡辺功

渡辺功Isao Watanabe

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「ミスター」と呼ばれたJリーガーが、2017シーズン限りで17年間の現役生活に幕を下ろした。

 キャリアの半分以上をJ2で過ごした。J2優勝を一度経験したものの、日本代表に選ばれたわけでもなく、得点王やベストイレブンといった賞にも縁はない。良いときも悪いときも、ただひたすらに。生まれ育った街のチームで石原克哉は、いつも全力でプレーしていた。

 1978年、山梨県韮崎市生まれ。韮崎高3年のときには、のちにプロ入りする同級生の東條公平、後輩の鶴見智美、深井正樹たちと、地元山梨開催のインターハイでベスト4入りした。

 順天堂大学卒業後、サッカーを離れることも考えたが、周囲の説得もあり、練習参加を願い出る形でヴァンフォーレ甲府に入団する。ただ、この前年に累積債務が4億5000万円以上に膨らんだクラブは、経営危機の渦中にあった。

最初の練習は学校の校庭、月給は5万円。

「僕が参加した最初の練習が、学校の校庭を借りての紅白戦だったんですけど、選手の頭数が足りなくて、コーチや地元の高校生に混ざってもらって、ようやくゲームをやったんです。芝生の上で練習できるのは、河川敷か、草野球場の外野くらい。お金の話をすれば、練習生だった最初の3カ月くらいは基本給なしで勝利給のみ。規定の出場時間に達してからはA契約に変わったんですが、最初にもらった月給は5万円でした。ほかにアルバイトをしている選手が何人もいました」

 少年時代に憧れた華やかなプロの世界とはあまりにかけ離れていたが、その分「恵まれたチームには負けたくない」反骨心を宿して、ルーキーシーズンから出場機会を重ねていった。

 チームには倉貫一毅、藤田健といった同世代の好敵手がいた。武器は独特のリズムのすり抜けるようなドリブル。本人は「わがまま放題に仕掛けて。好き勝手にやっていただけ」と言うが、主に左サイドを突破してのチャンスメイクで、'03年にはチームトップの10アシストをマークする。

 利き足は右だが、左足のキックコントロールも正確で、左で蹴る角度のセットプレーを任されたこともあった。

【次ページ】 全試合に出場した2005年、ついにJ1に昇格するが……。

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石原克哉
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