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月給5万円で始まった甲府での17年。
石原克哉は“チームの母”だった。
text by
渡辺功Isao Watanabe
photograph byGetty Images/J.LEAGUE PHOTOS
posted2017/12/26 11:00
最終戦を終えて挨拶する石原克哉に、サポーターは一面の「7」で答えた。この景色を彼が忘れることはないだろう。
全試合に出場した2005年、ついにJ1に昇格するが……。
フロントの努力や積極的な地域貢献活動、多くの地元の人たちからの支援などが実を結び、経営危機が回避されると、チームのほうも歩調を合わせて最下位脱出、中位進出、昇格争いとステップアップ。
ついに'05年には、柏レイソルとの入れ替え戦に勝利して、初のJ1昇格を成し遂げる。石原自身もこの年、リーグ戦全44試合に出場。引退会見で「一番思い出に残っている試合」と語った入れ替え戦の第2戦では、得意のドリブルで2点目を導くPKを奪取した。
まさに充実の1年だったように思えるのだが、本人のなかでは葛藤が続いていたという。
「'04年のオフに両ヒザをいっぺんに手術したんですけど、それから思うようなドリブルができなくなったんです。抜けていたはずのところで抜けなくなったと言うか……。自分がイメージするドリブルとは、まったく違ってしまっていた」
自分はパスを出したかったのにアイツが走り込んでいなかった。周りのサポートがないからドリブルできなかった。そんな具合に、思い通りのプレーができない苛立ちをすべて他人のせいにして、不甲斐ない自分を誤魔化していた。
コーチに言われた「お前このままだと、終わるよ」。
「そんなプレーばかりしていたら、コーチだった安間(貴義・前FC東京監督)さんに『お前このままだと、終わるよ』って言われたんです。それからですね、他人のことを考えるようになったのは。周りを見ることも練習で覚え始めて。元々運動量には自信があったので、そのあたりがうまくマッチしたおかげで、できるプレーが少しずつ増えていったんです」
わがまま放題のドリブラーは、攻守の切り替えや球際の強さ、無駄走りといった献身性で勝負するプレイヤーへ、季節が移ろうようにスタイルを変えていった。ポジションもサイドアタッカーからボランチ、シャドーストライカー、左右のサイドバック、今シーズンのルヴァンカップでは、1トップのセンターフォワードに入ってみせた。
あらゆる要求に応え、ときには無理を冒し、引き換えに古傷のヒザに巻かれたサポーターは厚みを増していった。