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俳句と同等の「べーすぼーる」愛。
球春の今こそ、正岡子規を知る。 

text by

今井麻夕美

今井麻夕美Mayumi Imai

PROFILE

photograph byWataru Sato

posted2017/04/10 08:00

俳句と同等の「べーすぼーる」愛。球春の今こそ、正岡子規を知る。<Number Web> photograph by Wataru Sato

著者の伊集院静氏も大の野球好きで知られる。彼らが文章を綴ることで、日本の野球文化はまたひとつ、深みを増す。

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」に野球のエッセンス。

 子規は病に抗いながら、文学で生きていくと決め、俳句や短歌、小説に挑み続けた。漱石は生家を支えるために就職し、借金を返さねばならなかった。が、交流を通して子規に触発され、文学に対する情熱を燃やし続けることができたのではないだろうか。

 正岡子規がいなければ、小説家・夏目漱石は生まれなかったかもしれない。そして俳句も現代に残らなかったかもしれない。野球もそうだが、子規の愛と情熱は、周囲を巻き込み、それに触れた人の心の中に足跡を残していく強烈なものなのだ。

 明治28年、子規の身体はますます弱っていたが、奈良へ旅行した。そこで着想した句が
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」だ。この代表作が生まれる場面が、野球に重ね合わせて描かれている。

〈そうして柿をポーンと空にむかって投げた。柿は青空の中を弧を描いていく。

「おう、べーすぼーると同じじゃ」

 子規は落下してくる柿をボールのように受け取り、それをかぶりと食べた。〉

子規にとって、野球とは青春そのものだった。

 そして3年後、もう自力では歩けなくなっていた子規は、野球の短歌を9首発表する。

「若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如く者はあらじ」

「うちあぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に」

 子規にとって、野球とは青春そのものではなかっただろうか。青空に弧を描く白球のあざやかさ、くたくたになるまで練習した日。もう手に入らない生の躍動を求める気持ちが、短歌から伝わってくる。

 明治35年、子規はこの世を去った。しかし平成14年に野球殿堂入りし、この小説の中にも生き生きと存在している。何かを強く求め、追い続ける情熱は、読む者の心にもまばゆい軌跡を残す。

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正岡子規

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