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なぜ試合中に選手の家族を映すのか。
五輪報道で感じたストレスの正体。
posted2016/08/18 07:00
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph by
JMPA
夏のオリンピック、12年ぶりのテレビ観戦である。
現場にいるよりも、日本でのテレビ観戦のメリットも十分に感じる。とにかく、生活時間帯を変える気力さえあれば、見たい競技がぜんぶ見られる。これはなんとも贅沢なことだ。アメリカだとNBCの独占放送だから、そこまでは追っかけられない。
日本ではテレビだけでなく、「見逃し配信」などのアプリを駆使すれば、かなりの量をカバーできる。でも、そんなことをしていたら、自分がダメな人間に思えてくるかもしれない。
日本のオリンピック視聴環境は、まことに素晴らしいのであります。
ただし――。ストレスも感じる。
今回気になったのは、競技中にやたらと選手の家族が映し出されたことだ。特に前半に行われた柔道、体操では試合の進行中に応援する家族の姿がテレビに映ることが多かった。
放送局の友人に確認すると、「事前に家族の許可を取ったうえで、中継していると思いますよ」との返事。勝手に映しているわけではないようだ。
特定の家族が映ると、一瞬気持ちが途切れる。
なぜ、私はこうした映像に違和感を覚えるのだろうか。
それは、家族の存在は基本的に試合の趨勢とは関係ないものだからである。
日本の中継で家族が映し出されている間、当然のことながら国際映像では違う素材が流れている(国際映像で家族が映ることもある。それ自体は否定しない)。それは選手や、コーチの表情であったりする。
私個人としては、選手の家族の映像よりも、選手の状態を映す方が試合の「情報」として優れていると思う。
他の大会の中継を考えてみよう。
たとえば、甲子園では時々、アルプススタンドの風景が差し挟まれる。しかし、それは家族と特定される類のものではない。その高校の生徒の応援する姿でしかないし、テレビの視聴者の気持ちとシンクロさせる意図がある。
しかし特定の家族が映ってしまうと、一瞬ではあるが、気持ちが途切れる。なぜなら、試合の流れとは関係なく「家族と選手」という別のストーリーを提示されてしまうからだ。