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“便利屋”オリックス原拓也の、
「脇役でもヒーローになる」勝負論。 

text by

永田遼太郎

永田遼太郎Ryotaro Nagata

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photograph byNIKKAN SPORTS

posted2016/05/17 10:30

“便利屋”オリックス原拓也の、「脇役でもヒーローになる」勝負論。<Number Web> photograph by NIKKAN SPORTS

ここ一番の打撃の切り札であると同時に、内野すべてのポジションで守備を務めた経験がある。頼りになるユーティリティプレイヤーだ。

西武時代には球団記録も。

 レギュラーとして定着するチャンスは、これまで何度か訪れた。

 埼玉西武時代は怪我で戦列を離れた中村剛也や片岡易之(現在は治大に改名)に代わって、コンスタントにスタメン出場していた。2011年には球団新記録となる51犠打を記録した。

「あのときは毎日が充実していましたね。毎日スタメンで試合に出て、それが当たり前のようにずっと続いていて……。バントもそこそこ決めることができましたし、バッティングもいろいろと試すことができて、結果もそれなりについてきた。そこでポンポンと行ける選手ならそのままレギュラーに定着できたんでしょうけど、それができなかったということは、僕には何かが1つ足りなかったのかもしれません」

 そう話す原だが、表情はどこか割り切っているようにも感じた。

 当時の埼玉西武には中村、片岡の他に中島裕之(現在は宏之に改名)や石井義人、外国人のエステバン・ヘルマン、ホセ・フェルナンデス、さらに浅村栄斗の台頭もあって、内野の選手層が厚かった。

 それでも「便利屋」または「スーパーサブ」としてそれなりの数字を築き上げてきたのが原だった。なので、まさか2012年の秋にライバルチームのオリックスへ電撃移籍するなどと想像さえしていなかった。

知らない土地で、新たな球団での、再スタート。

「僕、ずっと関東で育ってきているんですよ。高校、大学……そして西武、と。そこで関西に行くのが、まず知らない土地だし、知り合いは誰もいないし、そこからまず不安でした」

 慣れ親しんだ球団、そして街を離れるのは相当なショックだった。

「最初はそのことがけっこう厳しかったです。西武でそれなりに結果も出して、いい背番号ももらって、ある程度の立ち位置ができ上がってきた状態で、オリックスに行って1からだったので……。

 監督だけじゃなく、ファンの皆さんにも、自分がどういう選手かというのをアピールしなくてはいけなかったですし、最初にダメな選手だというのを見せたら、ファンにも、監督にも、コーチにも、そのイメージがずっとついてまわってしまう。なので、(移籍1年目の)オープン戦だったり、一軍の試合――そのときは開幕一軍から外れちゃったんですけど、5月くらいに一軍に上がって、そこで結果出さないといけないプレッシャーというのは相当でしたね。でないと『なんだぁ』って思われてしまうので……」

 俯瞰的にもう一度自分自身を見つめ直すことで、原はこれまで以上に野球に真摯に取り組むことを決意した。

【次ページ】 オリックス4年目、自分の立ち位置への思い。

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原拓也
オリックス・バファローズ
埼玉西武ライオンズ

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