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あの“細かすぎるモノマネ”芸人が、
四国ILのトライアウトで真剣勝負! 

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田口元義

田口元義Genki Taguchi

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photograph byGenki Taguchi

posted2015/11/04 10:40

あの“細かすぎるモノマネ”芸人が、四国ILのトライアウトで真剣勝負!<Number Web> photograph by Genki Taguchi

「放課後3時から遅くて11時まで練習していた。休日はずっと練習だった」と高校時代を語る杉浦。

帝京高校では最速141キロまで伸びた速球だが。

 愉快なエピソード。今でこそ笑顔で話せるが、自身の高校野球を総合的に語れば、どちらかというと苦い思い出のほうが多い。

 当時の帝京は全国でも1、2を争う強豪だった。杉浦の1学年上の先輩には後に巨人に入団する三澤興一がおり、1992年のセンバツで全国制覇を果たしている。杉浦自身、各地から集まる精鋭たちと切磋琢磨しながら腕を磨き、ストレートの最速は141キロまで伸びた。しかし、自分たちが最上級生となる新チームが始動した当初は、チャンスを与えられたというが、その期間は長くなかった。

 杉浦が回想する。

「スピードだけのピッチャーでしたから。新チームになって2、3カ月で僕のコントロールの悪さが前田監督にバレましたね。当時はマウンドに立つとキャッチャーミットとバッター、あと前田監督くらいしか見えていなくて、冷静に投げられませんでした。公式戦ではほとんど投げさせてもらえなかったなぁ」

 試合で投げられない。練習も厳しく年間の休みは元日と1月2日だけ。もう、野球やりたくないな――好きなはずの野球に辟易するようになっていた。杉浦が続ける。

「勝つための野球に疲れちゃったというか。『もっと楽しく野球がしたい』って思うようになっちゃったんですよね」

高校時代の忘れ物を、取り戻しに行く。

 帝京大学に入学後、1年ほど野球と距離を置いた。大学2年から仲間たちと草野球を始めたものの、和気あいあいとした雰囲気を無意識に拒絶している自分がいる。気が付くと、嫌だったはずの勝つ野球を杉浦は求めていた。そこから20年、杉浦は草野球という遊びの場で技術と思考を磨き続けてきたわけだ。

 本来なら高校時代に習得できたはずの技術や知識。その“忘れ物”をようやく取り戻せたと、杉浦は自信を持って語る。

「バッターとの駆け引きも自分なりに引き出しが増えましたし、広い視野でグラウンドを見渡せるようになりました。たまにマウンドで苛立つ時もあるんですけど、そういう時には『三澤さんは、味方がエラーをしてもポーカーフェイスで黙々と投げていたな』と思い出して冷静になったり。高校の時を振り返ってみて、『あの時こうしておけばよかった』って思うことができるようになっているんです。草野球ですけど野球は野球なわけで、自分なりに積み重ねてきたものを上のレベルで試したい。その想いは強いですね」

【次ページ】 芸人ではなく野球選手・杉浦双亮として……。

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