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福間納が語る1985年の阪神投手事情。
「リリーフに次はないと思っている」
posted2015/10/01 15:30
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph by
Sports Graphic Number
優勝するチームには馬車馬のようにフル回転する中継ぎ投手が必ずいる。
球団史上ただ1度の日本一に輝いた1985年の阪神はランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布に真弓明信という“30発カルテット”に象徴されるように打線のチームと言われる。しかしこのチームにもその陰で馬車馬のごとくマウンドに上がってチームを支えた中継ぎ投手がいた。
福間納投手である。
勝ち試合はもちろん、負け試合でもこの左腕が僅少差で持ちこたえている間に強力打線が爆発して試合をひっくり返すというのが、当時の阪神の“必勝パターン”。吉田義男監督の継投策でまさにジョーカー的存在だった中継ぎのスペシャリストにその極意を聞いた。
優勝前年には記録騒動から登板機会が減っていた。
――優勝前年の'84年は登板記録を巡って騒動がありました。福間さんが残り20試合で70登板を記録して元西鉄・稲尾和久投手(故人)の持つシーズン78登板(当時の日本記録)を破るんじゃないかという雰囲気になってきた。そのとき記録の神様と言われた報知新聞の宇佐美徹也さんが安藤統男監督に「稲尾の記録は400イニング以上投げた中身のある記録。中継ぎ登板だけで形だけの記録更新は考え直して欲しい」と手紙を送って、その後は急に登板機会が減ったという話ですね。
「記録は意識していましたよ。まだホールドなんて記録もなかったし、僕ら中継ぎピッチャーが狙えるものといったら登板記録くらいでしたから。ただ、あの一件からガクッと登板が減って、周りのみんなは『なんで投げさせてもらえんの?』と言ってくれたけど。110試合で70試合に投げているのに、その後は20試合で7試合しか登板せんかった。僕としてはタイ記録で良かったんです。(稲尾さんの記録を)抜かなくて良かった。でも、当時の中継ぎの評価というのは、そういうことだったんだと思いますね」