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“謎のチーム”サッカー北朝鮮代表。
その正体を東アジア杯で追いかける。
posted2015/08/11 12:40
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph by
Takuya Sugiyama
現場で見たインパクトが“ハンパなかった”。
8月9日まで行われた東アジアカップに出場したサッカー北朝鮮代表。
男子代表は大会初戦で日本代表に電撃的勝利。最終戦では優勝した韓国と0-0のスコアレスドローを演じ、最終成績で3位に入った。日本、韓国がトップチームを送り出さなかったとはいえ、プロリーグが存在しないためアジアチャンピオンズリーグにも出場しない選手たちのプレーぶりは脅威にすら映った。
もともと世界の強豪たる女子代表は、初戦でなでしこジャパンに4-2と大勝した後も他を寄せ付けず、3連勝で優勝を決めた。2011年に発覚した選手のドーピング問題で先のカナダワールドカップ出場権を剥奪されていたとはいえ、「やはり強し」の印象を与えた。
「意外とやるじゃないか」という見方はもう古い?
北朝鮮サッカーとは何か? 基本情報と現地でのチームの様子を今ここに!
北朝鮮サッカーの源流を訪ねると――。
正確に言えば「北朝鮮サッカー」ということにはならないが、「朝鮮半島北部」のサッカーのルーツのひとつを、日本統治下の1929年に辿ることができる。
1929年、「朝鮮日報」の主催でソウルにて「京平蹴球対抗戦」が開催された。「民衆の和合」が目的だったというから、いかに当時から朝鮮半島でのサッカー人気が高かったかがわかる。「京」とは日本統治下のソウルの名称「京城」の頭文字からで、「平」はピョンヤン(平壌)を表す。3戦行われた朝鮮半島・二大都市の代表チームの対抗戦には、多い試合で7000人もの観客が集まったという。結果はアウェーの平壌が2勝1分で勝ち越し。平壌代表の核となったスンシル大学は、当時の日本最強チームだった早稲田大学に7-0で勝利したこともある強豪だった。
第2次世界大戦終了後、1966年イングランドワールドカップでのベスト8入りはあまりに有名だ。
その直後の世代で北朝鮮代表入りを果たし、後に'94年アメリカワールドカップ予選で北朝鮮代表の指導を行ったユン・ミョンチャン氏('99年に韓国に亡命)から、こんな話を聞いたことがある。
「北朝鮮の元々のサッカー観の根底には、カウンターアタックが存在する」
それは、当時まだ20代から30代前半と若かった金正日の指導が発端だったという。視察に訪れた国内の試合で、見事なカウンターアタックが決まった。これを見た金正日が「サッカーとはこうやってやるもの」と称賛したのだという。金正日はサッカーのプレー経験こそないが、観戦を非常に好んだという。ユン氏は「当時、世界最高の高級品だったアディダスのスパイクが選手たちに贈られ、とても喜んだ記憶がある」と回顧していた。