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村主章枝の、見事なフィギュア人生。
振付師として心に届くプログラムを。 

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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photograph byAFLO

posted2014/11/24 10:50

村主章枝の、見事なフィギュア人生。振付師として心に届くプログラムを。<Number Web> photograph by AFLO

日本の女子フィギュアに、今日の隆盛をもたらしたのは、村主章枝だった。その競技人生に、拍手を送りたい。

村主の表現力を培った、様々な要素。

 それでは、その表現力を培ったのは何だったか。

 2003年、編集者という立場で村主の取材に同行したことがある。そのとき、「セルフプロデュースに長けている人だな」という印象を受けた。どのように自分を表したいか、記事を読む人にどう伝えたいか。村主の思いが、撮影時にフォトグラファーと積極的にコミュニケーションをとるさま、インタビューの言葉の端々から感じられた。

 15歳で振付師のローリー・ニコルと出会い、フィギュアスケートの魅力を教わり、「スケートの魅力を伝えていきたい」と心に刻んだこともあっただろう。

「私は体が硬いので」「才能があるとは思っていない」と本人もしばしば語ったように、身体能力に恵まれていたとは言いがたい。その中で、どのようにスケーターとして生きていくか。そこにもまた、表現が磨かれた理由はあったのかもしれない。

 村主自身は、トリノ五輪がもっとも忘れがたい大会だと言うが、トリノでの演技もさることながら、ソルトレイクシティ五輪のフリーは忘れがたい。また、エキシビションでも、個性あふれるプログラムを次々に披露してきた。

 例えば、ソルトレイクシティ五輪のエキシビション。フリーでの素晴らしい出来もあって、場内の声援を受けての好演だった。

もう一度オリンピックの舞台に立ちたい。

 そして今年の大晦日に34歳を迎える今日まで、現役生活を続けてきた。バンクーバー五輪出場を逃したあと、現役を続行した村主に、驚きの声もあった。

「トリノ五輪では持っていた力をすべて発揮したと思います。しかし、あと一歩でメダルに届かないという結果になり、自分には何かが足りなかったという思いがありました。自分に足りなかった何かを発見するには、やはり同じオリンピックという場でないと解決できないだろうということで、オリンピックにずっとこだわって滑ってきました」

 もう一度オリンピックの舞台に立ちたい。その一心で、競技を続けてきた。スポンサーを自ら探さねばならないなど、決して安定した競技生活ではなかった。やりくりを考えながら、ときには半年先、1年先の不安に駆られることもあっただろう。

 それでも続けてきた。

【次ページ】 何よりも、観る人の心に届くプログラムを。

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