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ホンダのF1担当社員に聞いてみた、
F1撤退・復帰に関する本当の気持ち。
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph byAP/AFLO
posted2013/06/27 10:30
マクラーレンホンダの全盛期、アイルトン・セナが乗りこなした名車MP4/4。1988年シーズンに活躍したこのマシンは、年間全16レース中で15勝している。
ホンダが、二度目の会見を開いた。6月14日のことである。
参戦発表時の会見が5月16日だから、1カ月足らず。したがって、特に新しい情報はなく、「前回の会見は、先方(マクラーレン側)のスケジュールの関係から十分な質疑応答ができなかったので、今回はゆっくりとお話しさせていただければ」(広報)という趣旨で催された。
そこで、明確にしておきたかった2つのことを、私はこの会見で問うた。
まず、福井威夫前社長が「撤退」という言葉を使って、F1から退いたにも関わらず、4年5カ月後に復帰発表を行なったことを、ホンダの人々はどのように消化しているのかである。
答えてくれたのは、第四期F1活動の責任者である新井康久(本田技術研究所 取締役専務執行役員 四輪レース担当)だ。
「撤退という言葉は非常に重いと受け止めていますし、いまでもあの日のことは忘れていません。撤退という言葉には、大きな意味があります。ただ、ホンダが置かれていた当時の経済状況を考えれば、社内的にも対外的にもその言葉を使わなければならなかった。それぐらい厳しい状況だったということ。それであえて、当時の社長は撤退という言葉を使ったと私は認識しています」
撤退後、ブラウンGPが快進撃したときの悔しさ。
2008年のリーマンショックによって経営が悪化して、F1からの撤退を決断したホンダには、厳しい批判が浴びせられた。しかし、ホンダのスタッフ、特に現場で戦ってきた技術者たちには、もうひとつ厳しい現実が待っていた。それはホンダが撤退した直後、チーム代表だったロス・ブラウンが買い取った新生ブラウンGPチームが快進撃を続けたことである。当時の研究所の様子を新井専務は次のように述懐する。
「技術者としては、あれほど悔しいことはなかった。ある程度、形が見えてきて、ようやく行けるという手応えをつかんでいた矢先の決定でしたからね。関わっていたエンジニアたちは非常に悔しかったと思います。その後、引き取ってもらったチームが成績を残してくれた時、彼らが『このクルマの基本設計はホンダがやった』と言ってくれたのが、救いでした。あれで、われわれの技術はある程度、達成したわけだし、自分たちの技術は間違ってなかったという自負もある。ただ、それを自分たちの手で直接できなかった。その悔しさは、ずっと残っています」