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カナダGP2位のグロージャンを支えた、
“文系”F1エンジニアの小松礼雄。
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph byMasahiro Owari
posted2012/06/14 10:30
1980年代後半、日本GPでセナとプロストが戦っていたのを非常によく覚えていると語る小松。当時、日本のF1シーンにどっぷり浸っていたことで、F1業界を目指すようになったという。
英語もできずに渡英し、F1エンジニアが通う大学へ。
通常の高校生なら、文系の大学に進学するのが精一杯。ところが、小松は単身渡英。秋入学までの3カ月間、まずロンドンで英会話学校に通い、1年間の大学入学予備コースでの勉強を経て、F1のエンジニアたちが多く通うラフバラ大学に入学してしまうのである。なぜなら、小松には夢があったからだ。それは、F1のエンジニアになることである。
ラフバラ大学に入学した小松は、自動車工学を専攻。ここで主席に次ぐ2番で卒業する。高校時代は数学も物理も苦手だった小松だが、それは小松にその才能がなかったからではなく、日本の学校教育が小松の才能を開花させることができない環境にあったからではないだろうか。
「僕が通っていた高校では、数学や物理も、それが何に必要かわからないまま授業が進んでいたから面白くなかった。でも将来F1のエンジニアになろうという目標を持ってイギリスに来たら、勉強していることと自分がやりたいこととのつながりが少しずつ見えてきて、嫌いだった数学の方程式も楽しくなりました」
ペトロフとグロージャンを表彰台に立たせた類まれなる才。
ラフバラ大学を2番目に優秀な成績で卒業した小松は、奨学金をもらって大学院でより実践的なエンジニアリングを学び、修了後の'03年にF1界に入る。そして、8年後の'11年についに夢を実現した。それだけでなく、'11年の開幕戦では、前年に一度も表彰台に上がったことがなかったヴィタリー・ペトロフをいきなり表彰台に立たせた。小松は言う。「一番の敵は壁を作ってしまう自分自身」だと。
それはグロージャンと組んだ2年目も変わらない。
じつはグロージャンが今年ロータスのレースドライバーとしてフル参戦を果たすと発表されたとき、周囲の評価は芳しくなかった。なぜなら、いまから3年前の'09年、グロージャンはネルソン・ピケJr.の代役としてロータスの前身であるルノーからレースに出場しており、そのときは一度もポイントに絡むことなく、シーズン終了後にシートを追われていたからだ。
しかし、小松はグロージャンの才能を疑うことはなかった。