スポーツの正しい見方BACK NUMBER
わずか10年ばかりでずいぶんえらくなったものだ。
text by
海老沢泰久Yasuhisa Ebisawa
photograph byNaoya Sanuki
posted2003/08/13 00:00
ジーコが日本にやってきたのは、1991年の5月だった。Jリーグ開設の2年前である。
所属したのは、日本リーグ2部の住友金属。むろん、その試合に観客などはいるはずもなく、芝生のない土のグラウンドでプレーすることさえあった。
ジーコがそういうところでプレーしている。ブラジル代表として3度のワールドカップを戦ったジーコを知っている者としては、おどろくよりほかになく、そういう環境しか提供できないことが恥ずかしくて仕方がなかった。
トヨタカップがおこなわれていた国立競技場のグラウンドも、芝生ではあったが、当時は冬になると枯れてしまい、雨や雪が降ると泥田のようになった。ヨーロッパと南米のクラブチャンピオンが世界一を決するような試合会場ではとてもなかった。それもぼくは見ていて恥ずかしかった。
当然のことながら、日本代表とワールドカップを結びつけて考えたことは一度もなかった。新聞の片隅にちいさく載るアジア予選の結果にすら注意を払わなかったといっていい。なにしろ、日本代表は1968年のメキシコオリンピックに出場して以来、さきのアトランタオリンピックに出場するまで、アマチュアの大会のオリンピックにさえ出場できなかったのである。日韓サッカーでも、韓国に負けてばかりいた。
しかし、多くの人は、わずか10年ばかり前のことにすぎないのに、これらのことをすっかり忘れてしまったらしい。
ぼくは、前代表監督のトゥルシエは、日韓ワールドカップでのベスト16という結果が示すように、非常によくやったと思っているが、思い返せば、就任から退任まで批判が絶えたことがなく、途中で解任騒動まで起きた。たった1度の出場で、ワールドカップでは何をすべきで何をすべきでないか、われわれはすべて分かってしまったのだろうか。フランスやアルゼンチンでも失敗することがあるというのに。
そして、こんどはジーコである。
トゥルシエの評判がわるかったのは、規律と組織を重んじて選手に自由なプレーをさせなかったからだが、ジーコはその反対に選手の自由と創造性をチームのスタイルにした。ところが、それが就任以来2勝5敗3引分けという数字が示すように成績に結びつかないと、多くの人が規律や組織も重視しないと駄目だといいはじめたのである。ジーコでは勝てないのではないかといい出す者まで出る始末だ。
国立競技場の枯芝の上でおこなわれるトヨタカップを見ていたころには考えられなかったことだ。そもそも、ジーコが日本代表の監督になるなどと考えられなかったし、考えたらバカかと笑われたろう。
ぼくはトゥルシエ批判が起きたときもそうだったが、こんども、わずか10年ばかりで日本のサッカーもずいぶんえらくなったものだなあと思って見ているのである。