ジーコ・ジャパン ドイツへの道BACK NUMBER

2005年コンフェデレーションズカップVSブラジル戦(2005年6月22日) 

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木ノ原久美

木ノ原久美Kumi Kinohara

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photograph byNaoya Sanuki

posted2005/06/24 00:00

2005年コンフェデレーションズカップVSブラジル戦(2005年6月22日)<Number Web> photograph by Naoya Sanuki

 大会前、ジーコ日本代表監督は2年前のコンフェデレーションズカップとは違う日本を見せたいと言っていた。大会結果は同じ1次リーグ敗退だが、今回はチームの出来にある種の手ごたえを覚えたようだ。

 日本はグループリーグ最終日の6月22日にドイツのケルンでブラジルと対戦し、2−2の引分けを演じたが、勝ち点でブラジルを上回ることはできずにB組3位に終わり、準決勝進出はならなかった。

 B組からは、この日ギリシャと0−0で引き分けたメキシコが勝ち点を7に伸ばして1位で通過。この結果、準決勝でメキシコはA組2位のアルゼンチンと、ブラジルは同1位のドイツと対戦する。

 日本とブラジルの対戦は1997年以降だけでも4度目になる。

 その97年8月の対戦は0−3(大阪、長居)で、その後99年3月には0−2(東京、国立)、2001年6月のコンフェデレーションズ杯では0−0(鹿島)だった。これらの数字だけを見ても、今回は得点を入れての引分けで、8年前に比べれば戦えるチームになってきたと言えるだろう。

 ジーコ監督は「母国に勝てなかったことよりも、決勝トーナメントへ行くべき力のあるチームが、ここでやられてしまったことの方が残念でならない。1点の重みを痛感した」と振り返った。

 試合開始3分のDF加地のゴールがオフサイドで取り消され、逆にそれで目が覚めたブラジルは、アドリアーノ、カカ、ロビーニョ、ロナウジーニョの前線4人が流れるようなパスワークと連動した動きで日本の守備陣を翻弄する。9分のカウンターからのロビーニョの先制点も、31分のロナウジーニョの2−1にした追加点も、そういう中から生まれたものだった。

 だが、日本選手は相手に振り回されながらも踏みとどまり、ブラジルが先制後に“お休み”に入り、自由にボールを持たせてくれた時間帯を利用して、MF中田英寿からMF福西とつないで、大会2度目のマンオブザマッチを手にしたMF中村が同点弾を決めた。

 日本はハーフタイムでの選手交替と「球際を強く行け」というジーコ監督の指示を受けて、後半は、それまで相手に利用されていたボランチと最終ラインの間のスペースのケアをして、「前半はよかったけど後半は全然楽しめなかった」とパレイラ監督に言わしめる踏ん張りを見せた。

 特にFW大黒の相手DFの裏を狙うプレーは、けして速くて強いとは言えないブラジル守備陣にとって、頭痛の種だったに違いない。後半1分、同9分の得点チャンスに絡み、後半42分には中村のFKのポスト跳ね返りに飛び込んで同点弾を生み出し、ロスタイムには勝ち越し点かというヘディングを打ってGKを慌てさせた。

 そこまでの反撃が出来ただけに、試合全般を通しての細かいプレーの精度不足と判断の甘さが嘆かれる。それらが勝利への“あと1点”を遠のかせていたと言ってもいい。

 中でも目に付いたのが、パススピードの緩さだ。ボールを受けても目指す味方に届かずに相手に簡単にカットされるようなパスの弱さは、トップレベルの国際試合では自殺行為だ。日本選手を翻弄させたブラジルの前線の4人や、A組から1位通過したアルゼンチンなどのプレーに、そんな弱くて通らないようなパスは見られない。

 今大会活躍した加地は、「いいところあったし、悪いところもあった。来年に向けて自分が代表に残ってW杯へでるためにもやらなくてはいけないことはあると感じた」と話した。

 本大会までの1年でなにをどう修正するかと聞かれたジーコ監督も、「全てにおいて磨かなくてはならない」と答えた。

 だが、その一方で指揮官は、「根本の精神面では世界の超一流を相手に互角以上の戦いができるようになった。気持ちで負けると勝負にならない。そのことが選手に植え付けられ、選手自身の肌で感じられたことが一番」と、今大会での収穫の大きさを口にした。さらに、「世界中の人に、日本のすばらしい可能性を感じてもらえたはず」とも。そう話すジーコ監督の表情は明るかった。

 このあと、日本は東アジア選手権(7月31日〜8月6日、韓国)を経て、8月17日にW杯アジア最終予選のイラン戦を迎える。

 これらの試合の一つ一つが来年のW杯本大会での結果に繋がることは間違いない。

 「今のいい流れを維持して臨みたい。イラン戦は予選グループ1位通過を狙う」。そう力強く言い残して、ジーコ監督はケルンを後にした。

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