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桑田真澄 41歳のキャンパスライフ。
text by
石田雄太Yuta Ishida
photograph byKohei Yauchi
posted2009/05/25 11:02
そもそも、彼の子供心に刻み込まれたのは、“わせだ”ではなく、“わしぇら”だった。
「祖父が早稲田出身ということもあって、小学生の頃、祖母がよく子守歌がわりに“都の西北”を歌ってくれていました。僕が、『何の歌?』と訊くと、『わしぇら(早稲田)の校歌だよ。真澄さんは、わしぇらに行くんですよ』という。僕は祖母との会話を今でもハッキリと覚えています。振り返ってみると、その頃から『僕は早稲田に行くんだ』と思い込んでいたのかもしれませんね」
41歳になった翌日の4月2日、桑田真澄は早稲田の学生となった。今では珍しい角帽をかぶって入学式に臨んだ桑田は、“あのとき”から23年目にして、憧れていた早稲田に入学することになったのである。
17歳のときに目指した早稲田の門を41歳でくぐることができた。
「受験する前、西早稲田のキャンパスに行って大隈重信像の前に立ったら、本当に感動しました。夢をあきらめちゃいけない、挑戦し続けることが大事だと言い続けてきましたが、チャンスはいつやって来るかわからないことを痛感したんです。メジャーへ挑戦するチャンスが39歳で巡ってきたことも、17歳のときに目指した早稲田の門を41歳でくぐることができたのも、あきらめずに挑戦する気持ちを持ち続けたからだと思っています」
“あのとき”高校3年の秋、桑田はドラフト会議の前に早稲田大学を志望していることを表明していた。教育学部の推薦枠に願書を提出し、受験票も受け取っていた。桑田は心の中で、「もしジャイアンツに指名されたらプロに行こう」「ジャイアンツが指名しなければ大学に行く」と決めて、大学受験の準備を始めていた。それは彼の野球人生における優先順位が、一にジャイアンツ、二に早稲田だったからだ。結果的に桑田はジャイアンツに指名されてプロに進んだのだが、決して早稲田を隠れ蓑にしたわけではなかった。
「僕は中学の頃、PL、早稲田、ジャイアンツという道を思い描いていました。高校を卒業するとき、PLから早稲田に行くか、ジャイアンツに行くか、神様に『僕にとって、最高の道をください』とお祈りしました。でも、あのときの道には続きがあったのです。PL、ジャイアンツから、まさか、パイレーツ、その後に早稲田なんて、想像もしませんよね。でも今となっては、これが神様が僕にくださった最高の道だったんだなと、そのありがたさを身に染みて感じています」
勉強できるという贅沢を満喫させてもらってます。
早稲田大学大学院スポーツ科学研究科・トップスポーツマネジメントコースこの春、桑田が入学を果たしたのは、高いレベルでスポーツビジネスを学ぼうと志す精鋭が集う、1年制の修士課程だ。桑田は出願資格審査によって大学を卒業した者と同等以上の学力があると認められ、面接を経て、大学院の合格を勝ち取った。講義は、火曜から金曜までは午後6時15分から9時25分まで、土曜は朝の9時から夜の7時45分まで、延々と続く。
「土曜日は90分の講義が6コマあります。午前中に2時限、午後に2時限の4コマの講義を東伏見で受けて、その後は早稲田に移動して、そこから2時限の講義を受けます。昼は学食にはまだ行ってませんが、同級生と一緒に近くのレストランに行ったり、スーパーで買ったものを食べたり……いわゆる買い食いってヤツですね(笑)。僕のゼミは10人で、すごくチームワークもいいんですよ。僕より年上の方も4人います。それぞれの分野でスポーツビジネスに関することを学ぼうとする人たちで、たとえば飲料メーカーで働いている人はスポンサーとしてゴルフなどの大会をサポートするようなビジネスを見据えて勉強しています。スポーツメーカーの人もいますし、サッカーのチームを持っている企業の人や、ハンドボール、競艇、ネット関連の企業でスポーツの映像配信について勉強したいという人もいます」
一週間の時間割は、火曜が法律、水曜が健康・スポーツ、木曜は論文作成の技法、金曜がスポーツクラブビジネス、そして土曜が会計と管理、スポーツマネジメント。
(続きは、Number729号で)
桑田真澄(くわたますみ)
1968年4月1日、大阪府生まれ。PL学園では甲子園に5回出場し、優勝2回、準優勝2回を果たす。'86年にドラフト1位で巨人に入団。沢村賞、セ・リーグ最優秀選手などに輝き、通算173勝を挙げる。'07年パイレーツに移籍し、6月にメジャー初登板。'08年も同球団とマイナー契約を結ぶも3月26日に引退。今年4月より早大大学院のスポーツ科学研究科・トップスポーツマネジメントコースに在籍中。