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日本ダービーに見たリアリズム。
text by
阿部珠樹Tamaki Abe
posted2006/06/08 00:00
ダービーは世相を映す鏡のようなものだといわれる。今年、ダービーという鏡に映し出されたのは、「格差社会」、「上流と下流に分かれつつある日本」であるように思われた。
たしかに、人気を集めた馬たちはくっきりふたつに分かれていた。下流の代表は1番人気の皐月賞馬、メイショウサムソンである。父はテイエムオペラオー以外にはこれといった活躍馬を出していない地味なオペラハウス。騎手も皐月賞がはじめてのGI勝ちだった石橋守。小倉デビューというのもデビューの際の期待感の薄さを物語っているし(酷暑の小倉でデビューしてダービーを勝った馬は過去72回の中で1頭もいない)、ダービーまでに10戦を消化しているローテーションも最近の人気上位馬としては珍しい「精勤ぶり」だ。
それに対して、フサイチジャンク、アドマイヤメインといったほかの人気上位馬は上流の匂いをさかんに振りまいていた。フサイチジャンクはせりで3億3000万円の値のついた馬である。名前は人気テレビ番組から取った(金ぴかなのにジャンクという苦いユーモア)。アドマイヤメインも1億3900万の馬。ともにサンデーサイレンスの最後の子どもたちで、銀のさじをくわえて生まれてきた期待馬である。
そしてレースは地味な庶民の代表のメイショウサムソンが金持ち馬たちを蹴散らして勝利をおさめた。上流、格差、なにするものぞ。一見すれば、「清貧」が「豪奢」を、「努力」が「才気」を打ち負かしたように見える結果だがはたしてそうか。
メイショウサムソンの勝利は文句のつけようのないものだった。アドマイヤメインが作るゆったりした流れを4、5番手で追走し、3コーナー過ぎから自力で動いてアドマイヤメインを捉え、並びかけて競り落とした。逃げ馬有利の展開をみずから動いて前の馬を捉えきったのだから価値は大きい。
しかし、価値は大きくとも、見た目には勝利の形はやや地味な感じが否めなかった。それはおそらく、ここ2年、われわれが怪物めいた勝利をつづけて見せられてきたせいだろう。超ハイペースを追走して坂下で先頭に立ち、そのまま押し切ってレコード勝ちした一昨年のキングカメハメハや、昨年のほかの馬が止って見えたディープインパクトの勝利に比べると、見かけはいかにも平凡なのである。
だが、これが本来のダービー、平均的なダービーなのだ。過去2年、われわれはファンタジーを見せられてきたのだが、今年、メイショウサムソンが演じたのは手堅いリアリズム劇だった。
メイショウサムソンの勝利は清貧や努力が善で豪奢や富裕や才気が悪だということを教えているのではない。下流の正義が上流の悪を倒したわけではない。
瀬戸口勉調教師は、メイショウサムソンを使うごとにだんだん力を付けていった雑草のような馬だと評した。去年のディープインパクトがデビュー戦を飾ったときからダービーへの青写真を描いたのに対し、メイショウサムソンは目の前のレースひとつひとつをクリアすることを考えたのだろう。ディープインパクトが幻想を現実に変えていったのに対して、メイショウサムソンはリアルな現実をそのまま受け入れることでダービーの勝利にまでたどり着いた。
考えてみれば、値段の高い馬が値段の安い馬よりもかならず強いというのも一種の幻想、物語である。フサイチやアドマイヤのオーナーたちは幻想を買っているのであって金で現実を支配しようとしたわけではない。リアルなレースという場では、そもそも上流、下流などといった二分法は存在せず、勝った馬が強いという現実だけがあるのだ。
だから今年のメイショウサムソンの勝利は、リアリズムのしぶとさと、下流だ、格差だ、勝ち組だなどと騒ぐことの底の浅さを教えてくれたダービーだったと言えないだろうか。