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岡部孝信 取り戻した感覚。 

text by

折山淑美

折山淑美Toshimi Oriyama

PROFILE

posted2006/02/09 00:00

 日本のエースが帰ってきた。

 低迷が続く日本ジャンプ陣にあって岡部孝信は、W杯で連続で表彰台に上るなど、かつての強さを取り戻している。

 1月のジャンプ週間、連戦で手応えを掴みつつあった岡部に「やっとここまで戻ったという感じ?」と聞いてみた。すると意外な答が戻ってきた。

 「戻ってきたとは思ってないですよ。それより、『ここまで来た!』って感じです。国内でさえもダメな状態があって、そこから段々上がってきたじゃないですか。その延長だから、やっと上がれたという感じですね」

 いまではチームの柱となっている岡部だが、高校時代までは漠然とジャンプを続けていた。1学年下に東輝、2学年下には葛西紀明がいた。2人は高校生で世界選手権代表に選ばれていた。「こいつらがいて優勝できるわけはない」、岡部は彼らの強さに感心するだけだった。高校卒業後、たくぎんでの敦賀栄コーチとの出会いが岡部を変えた。

 「そこでやっとジャンプのことも知り、『上を目指すにはそのままじゃだめだ』と言われ続けて……。『アァ、かっこ悪い。やんなきゃダメだ』と思うようになったんです」

 とはいえ、すぐにトップ選手になれるほど甘くはなかった。1年目に骨折。さらにそれが癒えた'91年、V字ジャンプがジャンプ界に革命を起こした。岡部はV字以前、スキーを右斜めにズラすことで、浮力を受けて飛んでいたため、右足は開けても左足がなかなか開けなかった。成果が出るまでに2年を要した。 '93年1月、白馬での全日本ノルディック選手権のラージヒルで優勝したのだ。

 「それまでは出来なかったのに、あの日本選手権でたまたまスキーを開けたんです。それで優勝して……。あれからV字ジャンプの感覚をイメージできるようになったんですね」

 その数週間後にある世界選手権の代表はすでに決定していたが、当時のジャンプ部長・笠谷昌生の英断で代表に押し込まれた。結果こそノーマルヒル14位、ラージヒル12位だったものの、そこから岡部は'94年のリレハンメル五輪代表、'95年の世界選手権ではノーマルヒルの王者となるなど、世界のトップへと駆け上がる。W杯でも4勝し、日本チームの主力選手として'98年長野五輪の団体金メダル獲得にも貢献したのだった。

 しかし、長野の後、ルール改正が行なわれ、岡部を含む日本チームは短くなった板に苦しむことになる。

 「板が短くなった時『何だ、これは!』っていうのはありましたよ。今でもそうだけど、難しいに決まってるじゃないですか。2m40の板で2m70の奴と戦うのは。でもそれを引きずってもしょうがないし」

(以下、Number646号へ)

岡部孝信

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