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原辰徳 代表と巨人を率いる違い。
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph byNaoya Sanuki
posted2009/04/06 09:05
漆黒の夜空に背番号83が浮かび上がった。3月23日(日本時間24日)はサムライジャパンと命名された日本代表が、真のサムライとなった日だった。その総大将・原辰徳監督は選手の手で3度、宙に舞った。
「最高の気分でしたね。巨人で何度か胴上げを経験しましたけど、また違う感慨があった。巨人での戦いというのは達成感が強いんですが、日の丸を背負った戦いというのはどこか重い。特にこのWBCは前回、王監督が率いた素晴らしいチームが世界一という偉業を成し遂げている。ファンの皆さんも日本球界の関係者も、連覇という期待を持つ中で、目標を達成できたことに、やはりホッとしたというのが正直な感想です」
指揮官は穏やかな表情でこう話した。
急速に進化するチームを作る秘訣
2月15日に宮崎に集合し、合宿をスタート。約1カ月の戦いだった。その中で監督がチームに求めたものは何だったのか?
「合宿の初日に僕は選手たちに『このチームは今日より明日、明日より明後日と日一日進化するつもりで戦っていこう! そのことを頭のど真ん中に置いてやっていこう!』という話をしました。選手たちは一流の集まりです。技術、気力に関しては全く心配することはなかった。ただ、問題は二つでした。一番大きいのはコンディショニング。これは我々、首脳陣が逐一、彼らの状態を把握して起用していくということだった。そしてもう一つがチームとしての結束です。最後の記者会見でイチローが『それぞれが強い向上心を持っていれば、リーダーは必要なかった』というような話をしました。本当にそのとおりで、選手一人ひとりが日々進化する気持ちを持ってくれた結果、チームはどんどん結束してまとまっていった感じです。その手ごたえを感じたときに、私自身の中では『いける!』という実感がありました」
開幕してから最も誤算だったのは、そのイチローの不振だった。第2ラウンドでは第2戦の韓国戦で日本キラーといわれた左腕のキム・グァンヒョン投手から第1打席に右前安打を放つなど3安打を打ったが、その後はさっぱり。アメリカに渡ってもずっと本来の姿を取り戻せないイチローに、一部では先発を外すべきでは、という声も起こった。
「そうですか……。でも、僕自身は一度たりとも、彼を先発から外すことは考えませんでした。単純に戦力というか、野球という総合的な部分で考えれば、彼の守備力というのは他では埋められないものがある。チームには亀井という肩と足のある控え選手もいましたが、それでも守備の総合力を考えたらイチローの方が上でしょう。だから彼をライトのポジションから外すことは有り得ないというのが私の考えでした。それと打撃に関しても、ずっと彼本来のバッティングができなかったことは確かです。そのことでイチロー自身も非常に悩んだと思います。でも、この打線はどんなに不振でも、やっぱりイチローが軸になる打線なんです。だからケガなどコンディション面で問題がない限り、スタメンから彼の名前を外すことは、一度たりとも考えたことはなかったですね」
イチローのバントに隠された意味とは?
負ければ第2ラウンドでの敗退が決まった3月18日のキューバ戦。イチローが5回無死一塁から送りバントを試みて失敗した。この大会でイチローは都合4度のバントを試みている。一部には原監督のサインという報道もあったが、監督はそれを否定する。
「イチローにバントのサインを出したことはない。イチローの足なら内野ゴロでも併殺の確率は低い。走者が入れ替われば盗塁とかもう一度、作戦を組み替えることもできる。彼にバントのサインを出したことは一度もなかったし、考えたこともなかった。あのバントは全部、彼が判断してやったことです。なぜ、バントしたのか? もちろん走者を進めることが目的です。ただその手段として、彼がなぜバントという方法を選んだかについては私なりの想像はある。ただ、それは少し感情の高ぶったところでのものなので、まだちょっと言葉にするのは早いでしょう。もう少し、時が経って冷静に振り返ってみた後に話しましょう(笑)。ただ、あのキューバ戦でバントを失敗してベンチに戻ってきたときの顔は、本当に何とも言えない表情でした。そういうことも含めて決勝戦の延長10回にイチローのヒットがセンター前に落ちた瞬間は、チームにとっても私個人にとっても忘れられない映像になると思います」
実はこの試合の最中に原監督はイチローに「もうバントはしなくていいから」と声をかけたという。
(以下、Number726号へ)
原 辰徳(はら たつのり)
1958年7月22日、福岡県生まれ。東海大相模高、東海大を経て、'81年ドラフト1位で巨人入団。'95年まで主砲として活躍。'02年監督就任1年目で日本一を獲得するも翌年限りで退任。'06年に再就任し、'08年セ・リーグ制覇