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「えっ、日本ハム?」まさかの連絡→大谷翔平の入団…当時コーチが体感した“大谷のナゾ”「不思議でした」千賀滉大も指導した田之上慶三郎の激動半生
posted2025/02/08 11:02

1990年代から2000年代にかけてホークスのエースとして活躍した“1億円投手”田之上慶三郎
text by

田尻耕太郎Kotaro Tajiri
photograph by
KYODO
◆◆◆
年俸1億円。それはプロ野球選手の一種のステータスだ。名実ともに一流の仲間に入るという、ひとつの到達点でもある。ただ一方で、その評価や期待に見合う……いやそれ以上を求められる重圧と向き合わなければならないと不安に陥る選手も少なくない。
田之上慶三郎がそうだった。
1億円投手の苦悩「余計なことを…」
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02年、「王ダイエー」のエースとして開幕投手の栄誉を初めて託されが、シーズン2度目の登板で完投勝利を挙げた後は6月23日の日本ハム戦(松山)まで泥沼の6連敗など苦しみ、結局6勝9敗と不甲斐ない成績に終わった。
結果が出ないから理由を探り、無理やりでも答えを導きだそうとして、自身の成功体験すら疑った。
「僕は打者のタイミングをずらすのが持ち味なのに徐々に合わされていくように感じた。もしかしたら打者にボールが見えやすくなったのは、球速を上げるために取り組んだはずのトレーニングをやりすぎて、体が変わってしまったからなのか? そんな風に余計なことまで考え出すんです」
疑心暗鬼になった田之上は、トレーナーから継続を促されるも、筋力トレーニングをやめた。
「実際にやめたら、トレーナーの言葉通り、悪い方向へ。結局怪我もしてしまいました」
若手台頭、ケガ…引退するまで
03年、20勝を挙げた斉藤和巳をはじめ、杉内俊哉、和田毅、新垣渚といった年齢20代半ばの投手たちが台頭していた。対してプロ14年目の田之上は、一軍登板3試合でわずか1勝。32歳の男をエースと呼ぶ者はいなくなった。
「選手生活を思い返すとね、頭に浮かぶのは大変だったことばかり。優勝とか喜びなんて一瞬。でも、その一瞬のためにどれだけ頑張れるかなんです」
07年、いよいよ右肘が限界を迎えた。ふと「もう潮時かな」という思いが頭をよぎった。18年間の現役生活に別れを告げた。