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「誹謗中傷で家族にも迷惑が…」審判の人生も狂わせた“高校サッカー最大の誤審”「作陽のVゴール」を見逃した“熱血先生”を支えた青山敏弘の活躍
posted2025/01/20 11:02
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph by
Takahito Ando
誤審をした審判――そんなレッテルを貼られても、青木隆は審判員であることから逃げなかった。
「もし私が審判をやめるとなると、これから先、『誤審をしたら審判をやめなくてはならない』という、悪しき前例を作ってしまう。これは、この後の審判の皆さんに大きな迷惑がかかると思ったので、活動を続けることを決意しました」
憧れは国見高校の小嶺監督
青木が審判を志したのは30歳をすぎてからのことだった。
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当時、青木は高校サッカー部の指導に励んでいた。マイクロバスを自費購入し、チームを強豪校にするために全国の高校に遠征して強化を図っていた。憧れは、尊敬する国見高校の故・小嶺忠敏監督だった。
ただ、その頃から岡山県の審判委員会の先輩たちから「青木は足が速いから審判に向いている」と身体能力と実直な性格を買われ、誘いを受けるようになった。背中を押されるように4級審判員を取得すると、実力が認められて3級、2級と位を上げていった。
「最初は軽い気持ちでしたが、審判委員会の方々が主審や副審をする試合に頻繁に足を運んでくださって、試合後に毎回丁寧にアドバイスをくれるんです。その熱意によって徐々に『本気で上を目指そう』と思うようになりました」
中国地方のサッカー活動を管轄する中国サッカー協会から推薦を受け、より熱のこもった指導やサポートを受けた青木は1994年、35歳の時に1級に昇級。以降はJリーグでも副審を務めるようになり、エリアを代表する審判員となった。
日韓W杯でサッカーブームが湧き起こる2002年。当時43歳の青木は夏のインターハイ決勝で主審を務めるなど、第一線で活躍していた。そんな矢先で担当したのが、岡山県予選の決勝、作陽高校vs水島工業戦だった。
「今、思うとインターハイ決勝の笛を吹いて、Jリーグで副審をやって、おごりではないですが、心の隙があったのかもしれません」