第101回箱根駅伝(2025)BACK NUMBER
青山学院大学 箱根駅伝4連覇時の主将だった吉永竜聖さん。日本生命入社7年目の今もなお生き続けている原晋監督の言葉
posted2024/12/10 10:00
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph by
AFLO / Wataru Sato
差し出された手は、あの頃ほど日焼けをしていない。
社会人7年目、名刺交換の所作も手慣れたものだ。名前の上の肩書きには、「IT推進部 課長補佐」と書かれている。
「異動の時期がけっこう特殊で、去年の7月から今の部署で働いています。簡単に言うと、社内のシステムをリニューアルする仕事。ほぼデスクワークですね」
こう話すのは、吉永竜聖さん。青山学院大学時代には、陸上競技部で主将を務めていた。
同級生の中には実業団で陸上競技を続ける選手もいたが、彼はきっぱりとその道を断った。代わりに選んだのが、日本生命という大企業で働くことだった。
「早く就職先を決めたかったっていうのもあるんですけど、保険という“形のない”商品を扱うことに魅力を感じました。入社1年目は営業現場に同行させてもらったりもして、まだ卒業したてで名前も覚えやすかったからか、『駅伝の子でしょ』って契約につながったこともあります(笑)。でもまさか、鹿児島から出てきたときは、こんな東京駅の間近で働くことになるとは思ってもいなかったです」
中学で陸上競技を始め、鹿児島城西高校時代には中距離種目で活躍した。楽しい雰囲気の中でさらに実力を伸ばしたいと、進学先に選んだのが、原晋監督が強化を進める青学大だった。
ついに叶わなかった箱根駅伝出場の夢
しかし大学の4年間は、楽しいだけではなかったと話す。
1年目は実力的に大きな壁を感じ、2年目は故障で苦しんだ。3年生になって初めて全日本大学駅伝のメンバーに選ばれると、3区を走って青学大の初優勝に貢献した。そして迎えた最終学年で、彼は同級生との話し合いによって主将に選ばれる。だが、4年間を通して、ついに箱根駅伝には一度も出場することが叶わなかった。
今、大学時代を振り返って、もっとも感情が揺さぶられるのもそのことだという。
「自分ができることはすべてやったと思えるので、悔いはないんです。ただ、4年の時は最後のチャンスだったので、もちろん走りたかったというのはありますね。色々悩んで、監督とも喧嘩して、やっぱりあの最終学年が一番濃かったなって思います」
社会に出ても、決して色褪せない青春の1ページ。心の拠り所として、今も大切にしている思い出だ。
あの4年間の努力は、社会人として働く今、どんな風に役に立っているのだろう。そう訊ねると、吉永さんはよどみない口調でこう話した。
「正直、自分は陸上競技をメインでやってきて、最初は勉強を頑張ってきた同期たちに負い目を感じるところもありました。でも、大学生活を振り返ったときに、自分にしかできないこともたくさんあったなって。普通の人が経験できないことを経験して、一生懸命努力した。結局、今努力している人が一番強いというか、そういう風にとらえてやってこれたかなって思います」
普通の人ができない経験。それこそがまさに主将を任されたあのラストイヤーだった。
入学した年度に青学大は箱根駅伝で初の総合優勝を飾り、その後も2連覇、3連覇と飛ぶ鳥を落とす勢いだった。当然ながら、吉永さんたちが4年生のシーズンには箱根駅伝4連覇の期待がかかった。入学した頃と比べ、世間の注目度は桁違いに大きくなっていた。