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「失礼な話だよ」落合博満42歳が巨人フロントにキレた「落合はおしゃべりが過ぎた」ナベツネは猛反撃…落合が拒否した巨人“残留オファー案”
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2024/10/30 11:02
1996年11月14日、「失礼な話だ」巨人の対応について怒った落合博満(当時42歳)。世田谷区の自宅前で
落合「(清原は)阪神に行っちゃうぞ」
これには落合も、「(清原は)このままだったら阪神に行っちゃうぞ。でも結局、あいつは巨人に縁がないんじゃないかな」と意味深な発言。フロント陣に対しては「今回の問題は責任問題につながるんじゃないの。球団のだれかのクビが飛ぶだろう」と斬り捨てた。15日夜から家族と静岡県の川根町に温泉旅行へ出かけた落合だったが、川根町のペンションには多くの記者が同行して、連日そのコメントが紙面を賑わせ続ける。
「(FAで)来るときはさんざんいいことを言っておいて、手のひらを返したようになるんだから。おかしなもんだよな。最初はクビで次は残留だからな。バカにされたもんだ!」(日刊スポーツ1996年11月17日付)
複数年契約の要求が受け入れられない場合は他球団への移籍を示唆。長嶋監督と会うことも「言い訳は聞きたくない」と拒否をする。さすがに複数年要求には深谷代表も「常識で分かるでしょう」と不快感を露わに。当時の川根町は携帯電話の電波が届かない地域で、スポーツ紙を介しての舌戦が続いた。だが、このままでは本当に落合も清原も逃すことになる。焦った巨人側は、長嶋監督が清原に永久欠番の「背番号3」の禅譲を明言。11月20日の2度目の交渉では、自ら出馬し「思い切って僕の胸に飛び込んできてほしい」と清原を口説き、3年契約で上限いっぱいの年俸3億4500万円を再提示する。後日、11年前のドラフトの件も、渡邉オーナーが「お父さんお母さんにまで悲しい思いをさせて申し訳なかった」と清原の両親も交えて謝罪したという。
ナベツネの反撃「落合はおしゃべりが過ぎた」
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「選手は『商品』だ。契約に応じ動かされるのは当たり前。といっても、この商品には感情があり、誇りがある」(朝日新聞1996年11月20日付)
朝日新聞の「天声人語」でもこの騒動が取り上げられるほど世間の関心も高まる中、東京に戻った落合は、23日のファン感謝デーの紅白戦で先発投手としてマウンドへ上がると、楽しそうに1イニングを無失点で投げ切り、球団納会にも出席する。なお、当日の「スポーツ報知」一面は、「落合『巨人に残る』」。電話取材に応じ、打撃コーチ兼任案にも「キヨだってバッティングでオレに聞きたいことがあるんじゃないの? そうなったら確かに肩書があったほうがいいかもしれないな」と前向きなコメントを残している。
その日の午後3時5分、鯉渕代表補佐の携帯電話に、清原から「阪神さんにお断りの連絡をしました。巨人さんにお世話になります」と直接連絡が入った。そして、翌日の11月24日午後4時、ホテルニューオータニの「鶴の間」で清原の巨人入団会見が行われるのである。一時は阪神の熱意に心が傾きかけるが、大阪の実家で母親から「あんたの夢はどこに行ったん?」と背中を押され、子どもの頃からの夢を追いかけることを決断した。緊張した面持ちで「命がけでやります」と決意表明する29歳の清原。もしも、このとき阪神を選んでいたら、いや師匠の落合と巨人で同僚となり多くの時間を共有して、さまざまなアドバイスをもらえていたら、男たちのその後の運命は大きく変わっていただろう。
その清原入団会見の当日、主役を社長室に招き入れて花束を贈呈したのが読売新聞社の渡邉社長だった。翌25日、東京・両国の国技館で開かれた横綱審議委員会に出席した渡邉は一連の落合騒動について、ついに怒りをぶちまける。