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「6秒差の落選」「まさかの故障」「“あと1人”で選抜漏れ」…箱根駅伝“悲運のエース→敏腕漫画編集者”の元ランナーが振り返る「箱根路の残酷さ」
text by
山崎ダイDai Yamazaki
photograph by(L)本人提供、(R)AFLO
posted2024/09/16 06:03
4年間「あと一歩」で箱根路を逃し続けた選手はどう自身の夢に区切りをつけたのか…第2の人生を歩む元ランナーに話を聞いた
だが目の前の大一番で敗れ、涙を流す仲間たちの姿を目の当たりにした。それは1年間、厳しい練習をともに乗り越えてきた同志が見せた初めての姿だった。
今年は、自分は走れなかった。でも、仲間のリベンジを来年は自分が果たす。連綿と受け継がれてきた箱根と大学陸上部の歴史を、この時初めて感じたという。
「箱根って、なんかいいな」
1年目に経験した予選会落選という“事件”で、鍵谷の中での箱根への想いは、180度変わることになってしまった。
鍵谷は兵庫の高校駅伝名門校のひとつである須磨学園の出身である。
3年時には3000mSCで激戦の近畿地区予選を突破し、インターハイにも出場している。一方で、兵庫は西脇工業、報徳学園など有力校がひしめく日本最激戦区でもあり、冬の都大路を走ることは叶わなかった。
「当時の須磨学園には2人、全国的にも有力なランナーがいたんです。それもあって、かなりの数の監督がスカウトに来ていました。そこで法大に声をかけてもらった感じです」
良くも悪くも「自由」だった当時の法大
当時、鍵谷が法大に対して持っていたイメージは、端的に言えば“軽くてチャラい”というものだった。派手な金髪やファンキーなサングラスをかけて活躍した徳本一善(現駿河台大監督)の頃から、法大は個性的でどこか目立ちたがりな選手が多かった。
「僕が入学したときには『自由をはき違えている』と言われることも多かったです」
たとえ派手な装いをしても、日々の生活を自律でき、しっかりと記録を出せる選手はそれがモチベーションの向上につながる。一方で、華やかさやメディアへのアピールそのものが目的となってしまい、本丸の陸上競技から意識が離れてしまう選手もいた。
「良い意味でも悪い意味でも、当時の法政は個人主義。個人が力を付ければ、それが結局チームにとってもプラスになる。だから各個人がそれぞれで頑張る……そういう意識でした」
トレーニングメニューも基本は余裕をもってこなせる範囲。やりたい選手はそれに上乗せしてガンガンやっていく。そんなスタイルだったという。
それは鍵谷も例外ではなかった。
1年目の予選会落選を受け、箱根駅伝への思いは強くなった。ただ、それは下級生エースとしてチーム全体を引っ張り上げようという意識に向かうのではなく、あくまで個の強化へと向かっていった。
「言い方は悪いですけど、『とにかく箱根を走れればいい』と。個人競技として、もう淡々とやっていました」