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「6秒差の落選」「まさかの故障」「“あと1人”で選抜漏れ」…箱根駅伝“悲運のエース→敏腕漫画編集者”の元ランナーが振り返る「箱根路の残酷さ」
posted2024/09/16 06:03
text by
山崎ダイDai Yamazaki
photograph by
(L)本人提供、(R)AFLO
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箱根駅伝「あと一歩で」届かなかったある選手の記憶
10月の昭和記念公園は、秋の寒風にそぐわない熱気であふれかえっていた。
草地広場を埋めるのは多くの大学の学生ランナー、コーチ、ファンたちだ。いまから16年前の2008年、85回目を数える箱根駅伝の予選会場は、通過校の歓喜と落選校の慟哭で埋め尽くされていた。
熱狂の渦の中で、鍵谷亮は半ば放心状態だった。
「いやいや、ウソでしょ」
鍵谷はこの年、1年生ながら法政大学の箱根駅伝予選会のエントリーメンバー14人に名を連ねていた。ところが、本番3日前に行われた調整練習を“外して”しまった。1年生ということもあったのだろうか。当日は2人しかいないリザーブメンバーに選ばれてしまい、予選会を走ることは叶わなかった。
「本戦、連れて行ってやるからさ。結局本番、走ったもん勝ちなんだよ――」
そんな風に4年生エースは自分に声をかけてくれていた。
メンバーから外れた自分を元気づけようとしてくれたのだろう。もちろん、そこには“落選”の2文字は微塵も浮かんでいないようだった。
「それがたった6秒差で落ちちゃって。『え、なんで?』っていう感じですよね」
この年は記念大会のため、予選会からは通常より3校多い13校が本戦に進めることになっていた。
伝統校の法大は、上位通過が有力視され、落選予想をしている人間はチーム内外問わず、ほぼいなかった。だが、それこそがスポーツの怖さでもある。わずか6秒の差で大舞台のチケットを失ってしまった。
鍵谷の周りの先輩や同級生たちは、一様に涙を流していた。でも、自分は走ってすらいない。泣く資格すらないような気がした。
「昭和記念公園から立川駅まで、ひとりでぼーっと歩いていたんですよ。そしたら当時の成田(道彦)監督がガーッと近づいてきて、背中をバンっとたたかれて。『来年は、お前がやるんだぞ!』って言われて。その言葉を聞いたら、不思議と急に涙が出て来て」
関西育ちで法大の門を叩いた鍵谷にとって、それまで関東のローカル大会である箱根駅伝はそこまで大きな意味をもっていなかった。箱根路に憧れを抱く多くの新入生とは異なり、鍵谷の場合は「東京に出たい」という高校生にありがちな上昇志向の方が強かったという。