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甲子園の風BACK NUMBER
大谷翔平、監督の目を盗み“サク超え連発”伝説…花巻東同級生が明かす「高校通算56本塁打」の本気を見た日「引っ張れば200本でも打てた」
text by
内田勝治Katsuharu Uchida
photograph bySankei Shimbun
posted2024/06/10 11:01
投打どちらでも評価されていた大谷翔平だが、花巻東の同級生・山根大幸さんにとっては打者としての完成度が衝撃的だったという
トレーニングとの相乗効果もあり、投手陣の体重は3年間で劇的に変化。山根さんは65キロから72キロ、大谷に関しては、66キロから2年夏に76キロ、3年夏には86キロと20キロの増量に成功した。
ただ、大谷は身長が190センチを超えてもなお成長段階にあったため、骨の成長に筋肉が追いつかず、成長軟骨が折れる「骨端線損傷」に悩まされた。2年夏の甲子園では、左股関節の痛みを押して、帝京(東東京)との1回戦で2番手として登板。ほぼ上半身の力だけで150キロをマークも、ベストピッチにはほど遠く、初戦で姿を消した。骨折している状態なので、無理もない。2年秋は、野手のみでの出場を余儀なくされた。
身体能力だけで速い球を投げる投手
「高校の時だけを見ると、身体能力だけで速い球を投げる投手というイメージでした。どちらかと言えば、2、3番手の2人の投手で勝ってきたので、翔平が絶対的エースという訳ではないと、みんな思っていたんじゃないでしょうか」
2年秋は東北大会準決勝で光星学院(青森、現八戸学院光星)に8-9で逆転負け。当時、センバツの東北出場枠は「2」だったこともあり、2季連続甲子園は絶望的だと思われた。
しかし、光星学院が神宮大会で優勝して「神宮大会枠」で東北が3枠に。大谷や山根さんら、上級生数人で神社参りを続けた“御利益”もあり、翌年センバツに滑り込みで出場することができた。
「光星学院が神宮大会の準決勝に行った時に、神社で拝んで勝ったので、決勝の前にも『もう1回行くぞ』と言って、拝みに行ったら優勝しました(笑)。翔平の発案だったと思います」
この時の“神頼み”が通じたことが、甲子園での本塁打、そして最後の夏に投じた「あの1球」へとつながっていく。
<つづく>