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PL清原和博の1984年センバツは30本塁打→今年は3本…高野連“飛ばないバット採用”背景に名将・尾藤公の遺言「一番の仕事じゃないかと」 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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photograph byKatsuro Okazawa/AFLO

posted2024/04/06 17:00

PL清原和博の1984年センバツは30本塁打→今年は3本…高野連“飛ばないバット採用”背景に名将・尾藤公の遺言「一番の仕事じゃないかと」<Number Web> photograph by Katsuro Okazawa/AFLO

1980年代、高校野球のヒーローだったPL学園・清原和博。その当時から「金属バット」について議論されていた歴史がある

 なお硬式野球用金属バットは、1975年に通産省、消費生活用製品安全法の「特定製品」に指定される。1983年にはメーカーなどが定める自主基準「SG」が定められ、今も試合で使用される金属バットはすべて「SG」マークがついている。

金属バット開発につながる「3つの方向性」とは

 この金属バットを最初に導入したときのやりとりから、今の金属バット開発につながる「3つの方向性」が見て取れる。

 まず金属バットの導入は「経済性」が前提であること。

 そして、金属バットに関しては「アメリカと話をする」のが基本であること。

 さらに、日本はSG(=Safe Goods)の名が示すようにマークでわかるように「安全性」を重視していること。

 古谷次長は「私たちは『不易流行』という言葉を大切にしています。先輩たちが築き上げてきた伝統を受け継いでいきつつ、変えるべきところは変えるのが、私たちの基本姿勢ですね」と語る。

 金属バットに関しても日本高野連の基本姿勢=「不易流行」が見て取れる。

 しかし導入当初は単価が高かったこともあり、金属バットの導入はそれほど進まなかった。指導者の中にも、懐疑的な見方をする人が一定数いた。

やまびこ打線の池田高校、KKコンビのPL学園

 そうした認識を劇的に変えたのが、1982年夏、初優勝を遂げた徳島県立池田高校だ。蔦文也監督は「芯を少々外してもパワーがあれば飛ぶ」という金属バットの特性を生かすために打撃に特化したトレーニングを行い、「やまびこ打線」の愛称で強豪私立校を撃破した。

 さらに新しい時代を築いたのがPL学園高校だった。

 桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」を擁するPL学園は83年夏、準決勝で池田高校を7-0で撃破するなどで優勝。清原は甲子園通算13本塁打という今も破られない記録を作った。

 ここで金属バット導入から1990年代まで、甲子園各大会での本塁打数の推移(日本高野連提供)を見ていこう。カッコ内は各大会1試合当たりの本塁打数。まずは1970~79年まで。

70年 春25試4本(0.16)/夏29試10本(0.34)
71年 春25試4本(0.16)/夏29試5本(0.17)
72年 春26試5本(0.19)/夏29試7本(0.24)
73年 春29試8本(0.28)/夏47試10本(0.22)
74年 春29試1本(0.03)/夏33試11本(0.33)
※夏から金属バット採用
75年 春28試11本(0.39)/夏37試15本(0.41)
76年 春29試6本(0.21)/夏40試13本(0.33)
77年 春29試9本(0.31)/夏40試21本(0.53)
78年 春29試10本(0.34)/夏48試15本(0.31)
79年 春29試18本 (0.62)/夏48試27本(0.56)

 今も昔も、夏の方が春よりも本塁打が出やすい傾向にある。

【次ページ】 派手な打撃戦が続き、高校野球人気につながった側面も

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