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PL清原和博の1984年センバツは30本塁打→今年は3本…高野連“飛ばないバット採用”背景に名将・尾藤公の遺言「一番の仕事じゃないかと」
posted2024/04/06 17:00
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Katsuro Okazawa/AFLO
春の甲子園は、群馬県の健大高崎高校の初優勝で幕を閉じた。
今大会から明らかに球場に響く「打球音」が変わった。金属バットの規格が、2001年以来23年ぶりに変更されたからだ。
金属バットの変遷は、昭和中期以降の高校野球の変遷の歴史でもある。金属バット規格変更を主導した日本高等学校野球連盟(日本高野連)への取材をもとに、その経緯を詳細に検証し、今後を展望することにしよう。
金属バット導入から、今年がちょうど50年だった
「高校野球が金属バットを導入してから、今年でちょうど50年になるんです。今の日本高野連の寶馨(たから・かおる)会長が高校3年生の時だったそうです。また今年はセンバツ高校野球が始まって100年でもあります。そうしたご縁も感じながら、今回の規格変更に携わらせていただきました」
こう話すのは、日本高野連の古谷純一事務局次長である。
熱心な野球ファンでも、実は金属バット導入の経緯を知る人は少ないのではないか。まずはその歴史的背景について――。
50年前、1974年の3月4日、日本高野連は常任理事会を開き「金属製バット(アルミ製)」の導入を決めた。
その最大の目的は「経済性」だったという。
木製バットは折れやすい。そのためバットの購入が選手、学校にとって大きな負担になっていた。前年の1973年、ハワイの高校野球と親善野球をした際に、ハワイ側から「アルミ製の金属バットを使用しても良いか」と申し出があり、日本高野連は初めて「金属バット」の存在に気が付いた。
当時の木製バットは自然乾燥ではなく人工乾燥が主流になり、以前より折れやすくなっていた。金属バットは木製に比べて高価ではあるが、すぐに折れたり変形したりすることはまずない。金属バットの導入で経費は軽減される。前年のオイルショックの影響もあって当時の日本は不景気風が吹いていた。
木製バットの値上がりを予期して、導入に踏み切った
そこで日本高野連は検討会を開催する。当初、導入には消極的な意見が大勢を占めたが、「高校野球の父」と言われた当時の佐伯達夫日本高野連会長がこう力説した。
「木製バットは今後も値上がりが予想されるため、思い切った措置が必要」
そこから次年度の導入に踏み切った。
当初は日本に金属バットのメーカーがなかった。そのため、米イーストン社製の金属バットが指定され、日本高野連は3600本の金属バットをアメリカから一括購入して配布した。その後、日本のメーカーも独自の金属バットを開発し、使用を認められるようになる。