The CHAMPIONS 私を通りすぎた王者たち。BACK NUMBER
天才的な防御技術は「父の平手打ちをかわしながら身につけた(笑)」世界王座獲得で天国の母に感謝、“アンタッチャブル”川島郭志の親子物語
text by
前田衷Makoto Maeda
photograph byKeiji Ishikawa
posted2024/04/26 11:00
現役時代、卓越した防御技術から「アンタッチャブル」の異名をとった川島郭志。世界王者となるまでに父の指導と母の献身があったという
「フライ級三羽がらす」と呼ばれたのは、昭和三十年代半ばのボクシング黄金期に活躍したファイティング原田、海老原博幸、青木勝利のライパルたちだった。これに匹敵する存在との期待も込めて、鬼塚・川島・渡久地のトリオは「平成の三羽がらす」と名付けられたのだ。ところが途中で川島の代わりに辰吉丈一郎を当てて「平成の三羽がらす」と呼ぶメディアも増えた。アマ時代からの因縁を考慮すれば、最初からバンタム級だった辰吉よりは、鬼塚・渡久地の2人と対戦歴があり、いずれも勝っている川島の方がライバルに相応しいと思える。
出世レースから脱落
それでも川島を外して辰吉がトリオに加えられたのにも根拠はあった。プロでスタートして間もない時期に2度の手痛い敗北を経験し、出世レースから脱落しかけたことが響いたのに違いない。しかし、この大きな挫折こそが後の「アンタッチャブル川島」を生む大きなバネとなったのである。
特に最初の敗北は痛かった。88年にプロデビューを果たし、3連続KOで東日本新人王フライ級決勝戦に進出。ここで顔を合わせたのが、アマ時代からのライバル渡久地だった。
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2人の激闘は新人王史に残る名勝負となる。プロになって予想以上に成長していたライバル相手に苦しい戦いを強いられた、最終6ラウンド、渡久地の猛攻に川島はサンドバッグ状態になり、レフェリーストップ。渡久地のリベンジヘの強い思いが川島のテクニックを粉砕した結果となった。当時の川島はフライ級では体重がきつく、初めての東京で1人暮らしのストレスもありつい食事量が増える。試合前に負けていたと反省した。
一部からは「終わった選手」の烙印も
プロ初黒星を喫した川島は、その傷心を癒せなかったのか、翌年のA級トーナメントでもいきなり躓いた。同姓の川島光夫という関西の中堅選手と対戦し、まさかの初回KO負け。ほぼ同時に放った右はほんの一瞬相手のパンチが早く、まさかの10カウントを聞く。これで川島は一部からは「終わった選手」の烙印を押されたが、本人は諦めなかった。自分の夢を維持できたのは、ヨネクラジムの環境の良さもあった。ジムの大先輩大橋秀行や仲間たちにも刺激を受けた。
その後はボクシングそのものを大改造することはなかったが、よりフットワークを用いて、右を放つ際に下がりがちな左手のガードを高く保つことを意識した。そして何よりも試合中相手から目を離さずにいる集中力を徹底させた。安定したボクシングヘの飛躍はそれからである。