The CHAMPIONS 私を通りすぎた王者たち。BACK NUMBER
天才的な防御技術は「父の平手打ちをかわしながら身につけた(笑)」世界王座獲得で天国の母に感謝、“アンタッチャブル”川島郭志の親子物語
text by
前田衷Makoto Maeda
photograph byKeiji Ishikawa
posted2024/04/26 11:00
現役時代、卓越した防御技術から「アンタッチャブル」の異名をとった川島郭志。世界王者となるまでに父の指導と母の献身があったという
実は強打者、KO率は58%
試練は2度の敗北に留まらなかった。今度は試合中に左拳を骨折し、1年のブランクを余儀なくされた。91年のアラン田中戦で5回KO勝ちした試合だ。よく強打者は手を痛めやすいという。川島というと技巧派のイメージが強いあまり、強打者としての面は顧みられることはないが、本人は自分にパンチがないと思ったことはない。実際24戦20勝(3敗1分)の中でKO勝ちは14度もあり、KO率58%は決して悪い数字ではない。92年7月13日に小池英樹を判定で破って日本王座についてからは、3度の防衛戦すべてで規定ラウンドを要さずにKO勝ちしている。
天国の母ちゃんが取らせてくれたベルト
そして迎えたボクシング人生のクライマックス。世界初挑戦のブエノ戦は終盤まで接戦を展開――といってもこれは試合後明らかになった採点表の上でのこと。実際は川島が巧みにブエノの強打をブロックして自分のペースで戦っているように見えた。このまま微妙な判定に持ち込まれるかと思われた11回に川島の左フックのカウンターが決まり、チャンピオンはたまらず尻もちをついた。これが決め手となり、3-0判定勝ち。川島の腰にグリーンの世界チャンピオンベルトが巻きつけられた。もし11回のダウンで「10-8」と取っていなければ、判定は引き分けとなり、川島の新チャンピオン誕生はなかった。それほど際どいものだったのだ。神がかり的なダウンで、「天国の母ちゃんが取らせてくれたベルト」と川島はすでに亡くなっていた母志津子に改めて感謝した。父が厳しく指導した分、母の優しさにすがることが多かったのだ。
今の僕があるのも親父がいたからこそ
その後は6度の防衛を果たし、97年2月20日、比国のサウスポー、ジェリー・ペニャロサに僅差の2−1判定を落とし王座を明け渡す。この時川島は27歳。試合内容が内容だけに再戦あるいは今なら階級を上げて現役を続ける手もあったが、チャンピオンになってからの川島は早くから「負けたら引退」と決めており、これがラストファイトになった。
東京・大岡山に川島ジムを開いたのは引退から3年後。これまでに日本ウェルター級チャンピオンの有川稔男を育て、その傍らテレビ解説や講演などの活動も続ける。
かつて 「川島兄弟は親父に嫌々ボクシングをさせられた」と言われたこともあったが、今、川島はこれを否定する。「今の僕があるのも親父がいたからこそで、感謝しかないです」
川島郭志Hiroshi Kawashima
1970年3月27日、徳島県海部郡生まれ
[戦績]24戦20勝(14KO)3敗1分
[獲得タイトル]WBC世界ジュニア・バンタム級王座
2歳半から父のスパルタ教育を受け、徳島・海南高3年時にフライ級でインターハイ優勝。1988年8月にプロデビューを果たすと、94年5月に世界初挑戦でWBC世界ジュニア・バンタム級王座に輝いた。97年2月、7度目の防衛戦となったペニャロサ戦で判定負けを喫し、王座陥落。そのまま現役を引退し、現在は後進の育成に努める