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「ロレックスもらいたかったな(笑)」ブラジル人名将が驚いたJリーグバブル期「監督はマツキ(松木安太郎)だ、と」ヴェルディ裏話も
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2024/02/24 11:01
94年、ヴェルディ川崎でコーチを務めた頃のネルシーニョと松木安太郎監督
「どうやら、そのようだった」
――それでは、松木は何をしたのですか?
「ほとんどなかったと思うが、試合後は〈監督〉として記者会見に出ることだけは彼の役目だった。予め私が彼に試合の戦術や選手起用の意図などを説明し、会見で彼はその通りのことを話したようだ」
――そのような状況で、松木との関係はどのようなものだったのですか?
「特に問題はなかった。彼は私のことをリスペクトしてくれたし、私も彼の立場を理解したからね」
――当時、メディアの一部は「ヴェルディ川崎は松木とネルシーニョの二頭体制」と表現していました。
「二頭体制でも何でもなかった」
ビスマルク、ラモス、カズ…ブラジル的だった
――Jリーグは当時創設から2年目。ジーコ、リトバルスキーらを筆頭に数多くの有名外国人選手が来日し、カズやラモスらもCM出演するなど日本で大きな話題となりましたが、リーグ全体やクラブの運営についてどう思いましたか?
「リーグ自体はきちんと運営されていたが、クラブによってはフロントが運営方法について良くわかっていなかったり、練習施設が不十分だったり、プロ意識に欠ける選手もいたようだ。しかしヴェルディの選手たちはプロ意識が高く、技術レベルも戦術理解能力も高かった。MFビスマルク、CBペレイラら一流のブラジル人選手がおり、ラモス、カズ(三浦知良)らブラジルのフットボール経験者もいて、日本で最もブラジル的なチームだった」
――ヴェルディは後期に優勝し、サンフレッチェ広島とのチャンピオンシップでも2戦2勝。93年に続いて連覇を成し遂げました。
「決して楽な戦いではなかったが、選手たちが私を信じて付いてきてくれた」
――Jリーグは、この年の最優秀監督に松木安太郎を選びました。
「副賞がロレックスの時計だった。私がもらいたかったな(笑)」
◇ ◇ ◇
冗談交じりに、なおかつ松木安太郎に一定の配慮をしながらも、「1994年のヴェルディ川崎で役職の上では コーチだったが、実際の監督は私だった」と明言。プライドの高さと自分の能力への絶対的な自信をのぞかせた。
その能力を買われて95年からヴェルディの監督に就任。さらには日本代表監督への就任が噂された。しかしそこで待っていた結末は、いわゆる「ネルシーニョ事件」だった——。
<つづきは第2回>