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「ロレックスもらいたかったな(笑)」ブラジル人名将が驚いたJリーグバブル期「監督はマツキ(松木安太郎)だ、と」ヴェルディ裏話も

posted2024/02/24 11:01

 
「ロレックスもらいたかったな(笑)」ブラジル人名将が驚いたJリーグバブル期「監督はマツキ(松木安太郎)だ、と」ヴェルディ裏話も<Number Web> photograph by Kazuaki Nishiyama

94年、ヴェルディ川崎でコーチを務めた頃のネルシーニョと松木安太郎監督

text by

沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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Kazuaki Nishiyama

 31年目のJリーグが開幕した。創成期で“バブル”に沸いた創成期の1994年を契機に、2000年代、2010年代、2020年代すべてで指導者として日本の地に居続けたのはネルシーニョ(73歳)だ。栄光をもたらしたヴェルディ川崎や柏レイソル時代、日本代表監督をめぐる「腐ったミカン」騒動に自身が指導した本田圭佑らへの率直な思いやウラ話を語りつくす。〈Jリーグ開幕記念NumberWebインタビュー。全3回の第1回/第2回第3回へ続く〉

「試合を分析する能力が、他の監督とはまるで違っていた。負けている試合で、ハーフタイムに自分たちがなぜ負けているのか、どうすれば勝てるのかを我々選手たちに理路整然と説明する。『後半、こうすれば必ず勝てる。俺を信じてくれ』と断言する。そして、彼の言う通りにプレーすれば、本当に試合がひっくり返る。現役時代、20人以上の監督から指導を受けたが、彼が突出していた……」

 個性が強いことで知られるラモス瑠偉がこう激賞する監督がいる。

 ヴェルディ川崎で、1994年はコーチ、95年から96年までは監督として指導を仰いだネルシーニョである。

 前の試合でベンチ外だった若手選手をいきなり先発で起用して試合を決めるような活躍を引き出したり、試合中の思い切った選手交代、ポジションや戦術の変更で流れを変えて勝利を呼び込む——。その奇跡のような采配は、「ネルシーニョ・マジック」と呼ばれた。そんな彼にNumber1091号に掲載された主将論とともに、その指導者キャリアについて聞く機会を得られた。

 待ち合わせ場所は、長年、彼が自宅を構えるサンパウロの高級住宅地近くのカフェ。約束の時間の数分前に着くと、すでに隅の目立たない席にちんまりと座っていた。

 小柄で柔らかな表情。そこからは“勝負師”という雰囲気はどこにも感じられない。しかし、ひとたび口を開くと、時として鋭利な言葉が飛び出す。

ネルシーニョが“気鋭の策士”の評判を得るまで

――あなたは現役時代、右SBでした。サンパウロ郊外カンピーナスで生まれ、17歳にしてプロになり、サンパウロ、サントスといったビッグクラブで活躍。1983年、左膝を痛め、33歳で引退を余儀なくされた。85年に小クラブの監督となったわけですが、指導者になるのは現役時代から考えていたのでしょうか?

「多くの偉大な監督から教えを受けた。自分も指導者になり、ブラジルと世界のフットボールの発展に貢献したいと思っていた」

――90年、39歳のときにサンパウロ州内陸地の中堅クラブ、ノーヴォ・オリゾンチーノを率いてサンパウロ州選手権で準優勝して注目を集め、名門コリンチャンスの監督に抜擢されると、この年のブラジルリーグを制覇。一気に一流監督の仲間入りを果たしました。

【次ページ】 ヴェルディ監督就任のつもりで来たら「マツキです」

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