誰も知らない森保一BACK NUMBER
「高校まで全く無名だった」森保一監督…そのサッカー人生で1番のナゾ「なぜ地元の強豪・国見高に行かなかった?」親友がいま明かす“受験の真相”
text by
木崎伸也Shinya Kizaki
photograph byAFLO
posted2024/01/28 11:05
1993年3月の日本代表合宿で。森保は当時24歳。この前年に初めて日本代表入りするまで、ほぼ“無名”の存在だった
国見でやる自信がなかった――。一見、もっともらしいような理由に思われる。当時の国見には1学年上の高木琢也を筆頭に、のちに実業団で活躍する選手がごろごろいた。
実際、森保自身も<二宮清純ノンフィクション・シアター・傑作選>では、国見を選ばなかった理由をこう説明している。
「(小嶺先生から)誘いもなかったし、行ってもレギュラーになれないんじゃないかという不安もありました。何しろそう大した選手じゃなかったですから」
「長男としての“やさしい嘘”だった」
普通であれば、本人が語った内容が最も真実に近いはずだ。だが、普通でないのが森保なのだ。
岩本は長年の友人としての勘から、まったく異なる見方をしていた。森保らしい「やさしい嘘」なのではないかと。
「深堀から国見は遠いので、3年間寮に入ることになります。経済的な負担がすごく大きい。僕の場合、寮費、食費、部費などで1カ月に10万円くらいかかっていたと思います。森保には1学年下の妹と3学年下の弟がいる。長男として家計に負担をかけたくないと考えて、特待生扱いの長崎日大を選んだのではないでしょうか。
もしそれを正直に父親に言ったら、『馬鹿たれ!』って怒鳴りつけられ、引きずってでも国見へ連れて行かれる。だから本当の理由を言わなかったのでは。
森保は家族思い。本人は絶対に明かさないと思いますが、これが本当の理由だと見ています」
森保家は深堀町で一軒家を構えており、国見へ通う経済力は十分にあったと思われる。だが、長男が無責任に夢を追ったら、妹や弟の選択肢が狭まってしまうかもしれない。森保にとって、それは何よりもつらいことだろう。
本音を言ったら、両親だけでなく妹や弟にも気を遣わせてしまう。ならば自分がやさしい嘘をつけばいい。そう考えたのではないだろうか。
森保はインタビューや会見で多くを語らず、ときにコメントが味気ないこともある。そういう「森保話法」はあえてやっているのかもしれない。身近な誰かを守るために――。
<続く>
森保一(もりやす・はじめ)
1968年8月23日、静岡県生まれ。長崎県出身。1987年に長崎日大高を卒業後、マツダサッカークラブ(現・サンフレッチェ広島)に入団する。現役時代は、広島、仙台などで活躍し、代表通算35試合出場。1993年10月にドーハの悲劇を経験。2003年に現役引退後、広島の監督として3度のJ1制覇。2018年ロシアW杯ではコーチを務め、2021年東京五輪では日本を4位に、2022年カタールW杯ではベスト16に導いた