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「高校まで全く無名だった」森保一監督…そのサッカー人生で1番のナゾ「なぜ地元の強豪・国見高に行かなかった?」親友がいま明かす“受験の真相” 

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木崎伸也

木崎伸也Shinya Kizaki

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posted2024/01/28 11:05

「高校まで全く無名だった」森保一監督…そのサッカー人生で1番のナゾ「なぜ地元の強豪・国見高に行かなかった?」親友がいま明かす“受験の真相”<Number Web> photograph by AFLO

1993年3月の日本代表合宿で。森保は当時24歳。この前年に初めて日本代表入りするまで、ほぼ“無名”の存在だった

 ただし、当時の長崎日大はまだ中堅校にすぎず、高校選手権に1度も出たことがなかった。いくらいいプレーをしても、全国の舞台は難しい。スカウトに見てもらえない可能性が高い。その先もサッカーを続けるとして、強豪大学や実業団入りは夢のまた夢だ。

 いったいなぜ森保は国見を選ばなかったのだろう?

 結論から言えば、「長男として妹と弟を思う気持ち」が関係していたと思われる。

 まずは親友・岩本が国見高校に入学したのち、どんなサッカー人生を送ったかについて簡単に触れておこう。

 岩本は国見高校の3年時にインターハイで優勝し、高校選手権で準優勝。小嶺監督のもとで研鑽を積み、全国の舞台で活躍した。強豪・駒澤大学を卒業して長崎銀行に入行。V・ファーレン長崎の母体となるチームでプレーして監督になり、のちに取締役となってクラブの土台を築いた。V・ファーレン史における最大の功労者のひとりである。

 2017年1月に岩本がV・ファーレンの取締役を退任すると、奇しくも同年7月に森保がサンフレッチェ広島の監督を退任した。互いに自由な時間ができ、以前にも増して交流が増えた。

「父親が受験させてくれなかった」説

 岩本は森保がいないときにも森保家を訪れるようになる。自ずと昔話に花が咲くと、父・洋記は階段を一段ずつ降りるかのように「真相」を語り始めたという。

 岩本は言う。

「まず僕が聞いたのは、中学3年の大事なときに学校でいろいろな事件が起きたということでした。森保自身は関わっていないんですけど、お父さんは『そんな中途半端な気持ちじゃ国見へ行っても通用しない。高校に行かないで働け』と厳しい言葉を投げかけたそうです」

 『ぽいち 森保一自伝』(西岡明彦との共著)でも、森保視点でこのことが語られている。

「受験票までもらっていた。しかし、真面目に受験勉強していなかったため、父親が怒って国見高を受験させてくれなかったのだ。そのため、僕は長崎日大高へ特待生として進学することになった」

「国見でやる自信がなかった」説

 だが、自伝にも書かれていないことだが、親子の会話には続きがあったのだ。父・洋記はまた階段をひとつ降りるように、岩本に新たな事実を伝えた。

「ふとした瞬間に『岩本、おまえには言うけど』とお父さんが切り出したんです。受験当日が近づいてきた最後にお父さんは『本当に行きたかったら、国見へ行っていいんだぞ』って言ったそうなんですよ。でも、森保は『いや、国見はやめて長崎日大へ行くよ』と答えたと。

 お父さんは国見行きを認め、背中を押そうとした。にもかかわらず、森保は長崎日大を選んだ。お父さんは『あいつはたぶん自信がなかったんじゃねえのかな』と見ていました」

【次ページ】 「長男としての“やさしい嘘”だった」

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