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プロ野球PRESSBACK NUMBER
桑田真澄が涙の訴え「巨人に行くしかないんです」KKドラフトの“悲劇”はなぜ起きたのか? PL学園スカウトが責められた「どうしてこんなことに」
posted2023/11/01 11:03
text by
柳川悠二Yuji Yanagawa
photograph by
JIJI PRESS
ドラフト会議に悲劇はつきものだ。
プロ野球を志してきた者にとって長年の夢が成就する一日であるはずが、野球人の思惑が複雑に絡み合い、時に前途洋々だった18歳の人生を狂わせることもある。今年も、高校1年生の頃より注目を集めてきた“広陵のボンズ”こと真鍋慧(まなべ・けいた)が、学校に用意された壇上で中井哲之監督と並んで指名を待ちながら、希望していた3位までには指名がなく、一言も言葉を発しないまま会場を去った。
ドラフト史「最大の悲劇」KKドラフト
1965年に始まったドラフトの歴史にあって、最大の悲劇は1985年のKKドラフトだ。巨人への入団を熱望していた清原和博と、早稲田大学への進学を希望していた桑田真澄。だが、ふたを開けてみれば巨人が指名したのは桑田であり、清原は6球団の競合の末、西武が交渉権を獲得した。会見で涙した清原に同情の声が寄せられ、甲子園で戦後最多の20勝を挙げた桑田は一転してダークヒーローとなった。早稲田への進学を公言することで他球団の指名を避けようと、巨人と桑田との間で密約があったのではないか――そんな説が流布されたからだ。
「既に亡くなっている人も多く、真相というのは、誰にも分からない。私にも、そして桑田にも。とにかくあのドラフトはPLにかかわるすべての人間にとって不幸な出来事だった」
かつて私にそう話したのはPL学園の野球部を作った男だ。名を井元俊秀(いのもと・としひで)という。PL学園の1期生であり、同校が甲子園に初出場した時の監督であり、70年代に入ってからは全国各地の有望選手をスカウティングすることに奔走し、PLの勃興を担った最重要人物である。「伝説のスカウト」とも呼ばれ、熱心に中学野球の現場に足を運び熱意を伝え続ける勧誘の姿勢は、大阪桐蔭の西谷浩一監督も踏襲したほどだ。
黒幕か?「伝説のスカウト」の証言
同時に、KKドラフトの仕掛け人とも黒幕とも囁かれた。井元はPL学園の監督を務めたあと、PL学園の母体であるパーフェクトリバティー教団の2代教祖・御木徳近から厳命を受け、プロ野球の歴代最多勝監督である鶴岡一人を介してスポーツ紙の記者に転身した時期がある。そこで球界とのパイプを築いていた。この井元と、当時、PL学園の1年生に息子がいた巨人のスカウト・伊藤菊雄、そして桑田家が結託し、巨人が一本釣りするシナリオを書いたのではないかと疑われた。井元が改めてKKドラフトを振り返る。