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桑田真澄が涙の訴え「巨人に行くしかないんです」KKドラフトの“悲劇”はなぜ起きたのか? PL学園スカウトが責められた「どうしてこんなことに」 

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柳川悠二

柳川悠二Yuji Yanagawa

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photograph byJIJI PRESS

posted2023/11/01 11:03

桑田真澄が涙の訴え「巨人に行くしかないんです」KKドラフトの“悲劇”はなぜ起きたのか? PL学園スカウトが責められた「どうしてこんなことに」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

1985年ドラフト会議の様子。桑田真澄は巨人、清原和博は西武に指名された

《先生、僕は早稲田に行きたいんだけど、親父がどうしても巨人に行ってくれと言うんです。だから僕は巨人に行くしかないんです》

 当時の桑田家の事情が巨人入りせざるを得ない状況だったと、井元は言う。

「桑田は父親に対して、『僕はお父さんの言うことを聞く。だからお父さんはこれから、お母さんを大事にして欲しい。それだけは約束して欲しい』と伝えたようです。現在のように、指名を待つ高校生や大学生が『プロ志望届』を提出しなければならないルールは存在しなかった。法整備されていなかったから、あらゆる手を使って選手を獲得しようという球団があったのも事実です。当時もし、プロ入りを望む高校生に志望届の提出義務があったならば、KKドラフトのようなことは起こり得なかったでしょう」

 後年、桑田はドラフト会議を振り返り、「巨人から指名されることがあれば、巨人に行くつもりだった。たとえ1位じゃなくても、巨人ならば入団するつもりだった」と語っている。だが、これは数十年が経過したあとだからこそ導き出せた桑田自身の総括であり、17歳(桑田の誕生日は早生まれの4月1日)時点の心情、もっと言えば真実とはならないのではないか、というのが筆者の見立てだ。

「清原に会いたい。そして、桑田にも…」

 井元は2002年にPL学園を離れたあと、青森山田や秋田のノースアジア大明桜でもスカウトの役割を担い、そして21年、85歳で退任した。関わった3校が甲子園で挙げた勝利数は99。プロに送り出した選手は83人にのぼる。

「本当ならばもう何人かプロになった者がおるんだが、そいつのことを僕は認めていないんだ」と笑う井元に心残りがあるとすれば、あのドラフト以来、清原と疎遠になってしまっていることだ。

「清原に会いたい。そして、桑田にも……」

 井元と桑田が神宮球場を訪れた日、ふたりに同行していた人物がいる。PL学園のOBであり、元ロッテオリオンズの得津高宏(76歳)だ。85年当時、ロッテのスカウトだった得津はドラフトの3日後、喧騒の大阪を離れて東京に上京してきた桑田を数日間にわたって自宅にかくまっていた。彼の桑田に対する印象は、井元ともまた違うものだった。

〈つづく〉

#2に続く
KKドラフト“3日後”に桑田真澄から電話「東京に来ているんです」…PL学園OBが聞いた「清原が言うから、巨人に行きたいと言えなかった?」

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