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「フットボールの世界はクズばかり」なぜジーコ兄弟は“父が猛反対”→名手になれたか…日本代表“あのW杯惨敗の真相”もエドゥーが明かす
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byREUTERS/AFLO
posted2023/09/03 11:02
ドイツW杯時のジーコ監督とエドゥーTA
鹿島アントラーズでも日本代表でも、指導者として申し分のない結果を残したとは言い難い。それでも、彼がジーコを支えながら日本のフットボールの発展のために尽力し、貢献してくれたのは確かだろう。
そんなエドゥー(とジーコ)の父ジョゼ・アントゥネスは、ポルトガル北部の小都市トンデーラ出身。9歳のとき、両親に連れられてブラジルへ移住した。
エドゥーとジーコはいつからボールを蹴り始めたのか
――お父さんの職業は?
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「10代後半から、リオ市内のパン屋で働いた。フットボールが好きで、熱心なフラメンギスタ(フラメンゴ・ファン)。彼の影響で、家族全員がフラメンギスタになった」
――当時も今も、リオに住むポルトガル系ブラジル人の大半は(ポルトガル人移住者が創設した)バスコダガマのファンですが――。
「父は『ポルトガル人だからといって、バスコを応援しなければならないわけじゃない。俺は、フラメンゴの赤と黒のユニフォームが気に入ったからフラメンギスタになった』と言っていた。少しへそ曲がりだった(笑)」
――お父さんは、自分でもプレーしたのですか?
「若い頃、アマチュアチームでGKとしてプレーしたそうだ。まずまずの選手だったらしく、『フラメンゴの入団テストを受けないか』という声がかかったそうだ。ところが、パン屋のオーナーがポルトガル人で、バスコのファン。『なにい、フラメンゴのテストを受けたいって? 受けるのならクビだ!』。仕事を失いたくなかったので、テストを受けるのを断念したそうだ」
――一家は子沢山だったとか。
「父が40歳頃、17歳も年下のカリオカ(リオっ子)の母マチウダと知り合い、一目惚れして結婚したらしい。長女ゼゼ、長男ゼッカ、次男ナンドまでが年子。私がナンドの2歳下で、3歳下がトゥニッコ、6歳下が末っ子のジーコだ」
――5男1女ですね。
「6人も子供を作ったことについて、父は『マチウダはとても美人で、結婚していても言い寄ってくる男が多かった。マチウダに隙を与えないため、毎年、子供を作った』と冗談とも本気ともつかないことを言っていた(笑)」
――なかなか愉快な人だったんですね。
「手先がとても器用で、結婚直後から洋服の仕立ての仕事を始めた。やがて町の中心街に自分の店を構え、紳士服を仕立てた。丁寧な仕事をするので、顧客には富裕層や有名人が多かった。当時のリオで最高の仕立て屋の一人だったようだ」
――兄弟たちは、皆、フットボールが好きだったのですか?
「そうだね。毎日、家の前の道路で、最初は兄弟の上の三人でボールを蹴っていた。ジーコは年が離れていたから、しばらくは仲間に入れてやらなかった(笑)。我々がうまいので近所で評判になり、見物する人が出てきた。また、近所のうまい子たちが集まってきたので、彼らも仲間に入れてやった。
これを見て、父が家の敷地の奥にフットサルコートを作ってくれた。兄弟と近所の子供たちを加えて『ジュベントゥージ』(注:若者、青春の意)というチームを作り、他のチームと試合をした。この頃にはジーコも大きくなったから、チームに入れてやった(笑)。当時の仲間とは、今でも交流がある」
父はプロフットボーラーになることに反対だった
――お父さんは自分でもフラメンゴ入りを目指したくらいだから、息子たちにプロ選手になってほしかったのでしょうか?