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鹿島の「ジーコスピリット」を言語化したのは“世間的にあまり知られてない兄”だった? 陰の仕事人エドゥーが明かす“弟ジーコ裏話”
posted2023/09/03 11:01
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Hiroaki Sawada/Sports Graphic Number
リオ北部の庶民的な住宅街で、6人きょうだいの上から4番目として生まれたエドゥー。男兄弟5人のうち実に4人がプロ選手になったが、このうち最も華々しく活躍したのがこの男と6歳年下の末っ子ジーコだった。
ジーコは「人間としてもプレーヤーとしても、常にエドゥーの背中を見ながら育った。彼がいなければ、その後の私は存在しない」と断言する。
ジーコは身長172cmで、少年時代はひ弱と言えるほど華奢だったが、エドゥーはさらに小さい。「選手時代、身長163cm、体重58kgくらいだった」(本人)。しかし、繊細なタッチのドリブルで大柄なDFを翻弄し、正確なパスを繰り出し、強烈なシュートを放った。リオの中堅クラブ、アメリカFCで1966年から9年間に渡ってエースとして活躍。非公式戦を含めるとクラブ史上最多の211得点、公式戦だけでも99得点(クラブ史上2番目)を記録し、セレソン(ブラジル代表)にも選ばれた名手だった。
彼の現役時代を知るアメリカFCのファンは、「エドゥーはジーコ以上の選手だった」と口を揃える。
1981年に34歳で現役を退き、翌年から指導者の道へ。古巣アメリカを皮切りに、ブラジルの有力クラブ、イラク代表、エクアドル、メキシコ、ペルーのクラブを率いた。短期間だが、セレソンの監督も務めた。1994年から鹿島アントラーズのコーチ、そして監督。2003年から06年までは、日本代表監督を務めた弟をテクニカル・アドバイザーとして支えた。
近年、日本のフットボールの発展に最も貢献した人物の一人がジーコなら、彼を陰で支えたのがこの男だ。性格は底抜けに明るく冗談好き。弟とよく似た甲高い声で、長時間インタビューに応じてくれた。
愛しい弟の頼みを断れるはずがない
――1994年初め、鹿島のコーチに就任しました。その経緯は?
「1993年後半、日本にいたジーコから電話があった。『私は来年前半で現役を引退するが、以後もアントラーズのテクニカル・ディレクターとして強化に携わる。そこで、兄さんに来年初めからアントラーズを指導してほしい』。愛しい弟の頼みを断れるはずがない」
――Jリーグ、鹿島、日本での生活についてどう聞いていましたか?
「Jリーグは1993年に始まったばかりだけど、日本人はフットボールの普及と強化に強い意欲を抱いていること、リーグは非常にうまく運営されていること、アントラーズの施設は年々整備されていること、日本での生活は快適で何の心配もいらないことなどを聞いた」
――実際に日本へ着いて感じたことは?