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アントニオ猪木が生前に明かした「後継者」の名前…佐山聡はなぜ人気絶頂で“虎のマスク”を脱いだのか?「タイガーマスクは猪木イズムの結晶」 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph by東京スポーツ新聞社

posted2023/08/12 11:01

アントニオ猪木が生前に明かした「後継者」の名前…佐山聡はなぜ人気絶頂で“虎のマスク”を脱いだのか?「タイガーマスクは猪木イズムの結晶」<Number Web> photograph by 東京スポーツ新聞社

WWFジュニアヘビー級王座の初防衛に成功し、アントニオから祝福されるタイガーマスク(1982年1月28日)

「佐山は“最強の格闘技”を標榜した、自分が若手時代の新日本プロレスを愛していたんだけど、海外から帰国してタイガー人気が爆発すると、みんなブームに浮かれてかつての道場の理念が置き去りにされてしまった。そのとき、彼は気持ちが熱いから、『もうここにはいたくない』という思いになったんですよ。しかも、彼はそれを周囲に言わないんですよ。自分の中に溜め込んじゃったんです。だから、佐山の不満が爆発しそうなことに誰も気づかなかったんです」(山本)

「プロレスのためにやめる」発言の真意

 タイガーマスクの人気が上がれば上がるほど、新日本のストロングスタイルが空洞化していくことに、佐山のストレスは限界に達した。すべてに嫌気が差し、『もう名声も何もいらない。これからは、自分のやりたい格闘技を、自分の手でイチからやっていこう』と決意したのだ。

 そしてタイガーマスクは’83年8月4日、蔵前国技館での寺西勇戦を最後に、人気絶頂のまま突如としてリングを去った。

 のちに佐山は、「僕はタイガーマスクをやめるとき、『プロレスのためにやめる』って言ったんですよ。このままじゃプロレスがダメになると思ったから」と語っている。それまで佐山は「新日本プロレスのために」タイガーマスクとして闘い続けたが、皮肉にもタイガーの人気が爆発することで、新日本からストロングスタイルが薄れ、金銭的な腐敗も引き起こした。そうなったすべての原因であるタイガーマスクを、佐山は自ら葬り去ったのだ。

「佐山は猪木イズムの最もピュアな部分を体現した人間」

 こうして「タイガーマスク」は、ファンの前から突然姿を消してしまったが、タイガーを演じることから解放された佐山は、これまで封印していた『自分が本当にやりたいこと』に邁進していく。まず、打撃、寝技、投げという格闘の要素を合わせた新格闘技(のちの総合格闘技)を鍛錬する『タイガージム』を設立。さらにスーパー・タイガー(当初はザ・タイガー)と改名して’84年に現役復帰すると、新団体UWFで前田日明、藤原喜明らと、従来のプロレスとは違い、ショー的要素を排した格闘プロレスを展開。その1年後にはプロレスではなく、完全な競技としての総合格闘技を確立するためにUWFを退団。自らは完全に現役を退き、「シューティング(修斗)」の普及に励むようになる。それが現在のMMA誕生へとつながっていった。

「いま思えば、佐山は猪木イズムの最もピュアな部分を体現した人間だったんだよね。そうじゃなきゃ、大スターの座をあっさり捨てて、マスクを脱ぎませんよ。タイガーマスクを続けていれば、いくらでもカネになったのに、そんなことは見向きもせずに、理想に向かって走っていった。その利害を超えて夢に向かっていく姿勢こそが、真の猪木イズムだったんです」(山本)

【次ページ】 生前の猪木が明かした「たったひとりの後継者」

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