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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
アントニオ猪木が生前に明かした「後継者」の名前…佐山聡はなぜ人気絶頂で“虎のマスク”を脱いだのか?「タイガーマスクは猪木イズムの結晶」
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by東京スポーツ新聞社
posted2023/08/12 11:01
WWFジュニアヘビー級王座の初防衛に成功し、アントニオから祝福されるタイガーマスク(1982年1月28日)
人気絶頂の裏で「俺はここにいても…」
しかし、佐山が海外遠征に出る前と、タイガーマスクとして帰ってきたあとの新日本プロレスは、状況が大きく変わっていた。猪木の異種格闘技路線は、’80年2月のウィリー・ウィリアムス戦ですでに一旦終止符が打たれており、新日マットから格闘技色は一掃され、華やかなアメリカンプロレスが中心となっていた。ハルク・ホーガンが人気を博し、タイガーマスクの空中殺法目当てのちびっ子ファンが多数詰めかける会場に、もはや殺伐とした格闘技は必要とされていない。佐山がそんな新日本の変質に気づくのに時間はかからなかった。
「僕はメキシコに行っても、イギリスに行っても、そして日本に帰ってきてタイガーマスクになってからも、猪木さんの『お前を格闘技の第1号にする』というその一言を信じてやっていましたから。『いつかは格闘技を』という思いで、プロレスをやってきていたんですよ。でも、タイガーマスクを始めて1年ぐらいして、『俺はここにいても、格闘技はできないんだな』と完全に気づいてしまったんです。
また、あの頃はもう新日本全体がプロレスブームに浮かれてしまっていて、興行優先、視聴率優先、『とにかく派手なことをやってくれ』みたいな感じになってしまっていた。そして肝心の猪木さんも(個人的事業である)アントンハイセルの資金繰りで手一杯で、病気(糖尿病)でもあったし、僕が格闘技をやる話なんか、おくびにも出せない状況。そして、僕に求められてるのは、とにかくタイガーマスクであることだったので、『ああ、格闘技をやるのは、もう無理なんだな』と。気持ちがサーッと引いていってしまったんです」(佐山)
大ブームの中で、佐山だけが葛藤していた
80年代に佐山を最も取材したターザン山本は、当時の状況をこう語る。
「佐山は誰よりも格闘技志向の人間だけれども、彼の新人時代の新日本はガチンコを前提とした『道場の理念』が第一であったから、プロレスに誇りを持つことができた。でも、タイガーマスク人気による大ブームによって、新日本の上層部はみんなのぼせ上がってしまった。練習よりサイン会やイベント出演が優先され、そのカネがピンハネされる。試合でも『50万ボーナス出すから、派手な大技を出してくれ』なんてことを言われる。そのとき、佐山は一種の人間不信に陥ったんだよね。『俺は金儲けのための単なる道具か?』と。『もはや自分が新日本に抱いてきた理念は何もない。このままだと団体が空洞化して、俺がプロレスの世界に入ってきた思いも空っぽになってしまう』というね」
この時期、新日本は表向きはプロレスブームに沸いていたが、金銭問題が原因で内部がぐちゃぐちゃになっていた。エース兼社長である猪木はアントンハイセルに執心し、それが火の車になると、莫大な借金は新日本の経営にも影響を及ぼした。そして不透明すぎるカネの流れに愛想を尽かした一部トップ選手やフロント幹部が、水面下でクーデターや新団体設立を企てて動き出す。華やかなリング上の裏では、カネと権力争いに明け暮れているという現実があったのだ。