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「高校野球でここまでやるか」継投が異端視された20年前…“木内マジックの完成形”常総学院が優勝するまで「甲子園、40度くらいになるんだ」
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byJIJI PRESS
posted2023/08/09 11:01
甲子園優勝「3回」。名将・木内幸男のマジックはいかに生まれたのか?(写真は常総学院時代)
きめ細やかな継投について、木内は試合後に「高校野球でここまでやるかと思われるでしょうが、勘弁してください」と煙に巻いていたとされるが、実際はこんな思惑があった。
「監督っていうのは、2番手、3番手がいいピッチングすっと嬉しい誤算かもしれないけど、エースがいいほうが嬉しい。強気になれっから。村上はチームが点数を取れない時はよくて、取れっ時にはよくねぇから、そういうのを考えながらやってはいました」
忌避感でもある継投は、木内にとって「強者の戦法」となっていた。
トーナメントの組み合わせが決まれば、優勝まで逆算してピッチャーの起用法を練る。全国の覇権を握るためには、それはもはや不可欠な作業となっていたのだ。
「『一戦必勝』ってのは弱いうちの話だから。甲子園に行ける土壌ができて、チームが強くなってくっと『最後まで勝つ』って計算しないと優勝できませんから。でもみんな、それがなかなかできねぇんですよ。負けちゃったら明日がないから」
公では好々爺を演じていても、その実、眼をぎらつかせている勝負師。そんな木内の本領が発揮されたのが、大会前から監督の勇退を宣言していた03年の夏だった。
「勇退宣言」で臨んだ20年前
この年の常総学院は、磯部洋輝と仁平翔の両左腕を中心に茨城大会を勝ち上がってきた。一方で木内がひそかに「優勝のキーマン」として計算していたのが、県大会でわずか1回1/3しか投げていなかった飯島秀明である。
前年の夏に背番号1を付け甲子園のマウンドに上がった右のサイドスローは、この直後に右ひじを故障したことでマウンドから遠ざかり、本調子ではなかった。3年の夏も連日のように実戦形式の練習で投げるも打ち込まれる場面が多く、コーチ陣から「甲子園では通用しない」と判断されていた。
木内はしかし、そこでの飯島は「打たれている」ではなく「打たせている」と見ていた。
「ブルペンで放ってんのを見ると、打たせねぇ球放ってるんです。だから、甲子園でも一番嫌な相手にリリーフ出してみっかなと。そこで通用したら、ほかでも通用すっから」
トーナメントにおいて木内が「一番嫌な相手」と睨んでいたのは、2回戦であたる智辯和歌山だった。2-2の5回、先発の磯部がピンチを作ったところで飯島をマウンドに上げると、監督の思惑通りその回を無失点に抑え、9回までの5回を1失点にまとめた。
「ああいう試合で勝利投手になると自信がつく。それまでダメだった奴が別人になる」