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「高校野球でここまでやるか」継投が異端視された20年前…“木内マジックの完成形”常総学院が優勝するまで「甲子園、40度くらいになるんだ」
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byJIJI PRESS
posted2023/08/09 11:01
甲子園優勝「3回」。名将・木内幸男のマジックはいかに生まれたのか?(写真は常総学院時代)
なぜ交代の決断が早いのか?
木内の継投プランには、ひとつの法則があった。それは、打線が取れると想定する得点と、起用するピッチャーが奪われるだろうと考える失点の対比だ。「このピッチャーからは3点取れる」と踏めば「2点まで取られてもいい。そこからは他のピッチャーでしのぐ」という、いわばシンプルな戦術である。
智辯和歌山戦での好投によって木内の信頼を得た飯島は、3回戦以降もマウンドに立ち続けた。そして、東北との決勝戦でも重要なピースとして大仕事をやってのけたのである。
木内はこの試合、相手の2年生エースであるダルビッシュ有から「3点は取れる。それで敗けたら仕方ない」と腹を括っていた。裏を返せば、東北打線を2点までに抑えれば勝てるという確信があったわけだ。
だから、決断が早かった。
先発の磯部が2回に2点を先取され、3回にもヒットを許すと、木内は迷わず飯島に代えた。監督の見立て通り、打線が4回にダルビッシュを攻略して3点を奪い逆転し、蘇った元エースが抑える。2回戦からマウンドに立ち続けた飯島は、3回戦以降、1点すら与えることなく常総学院の胴上げ投手となった。
計算しつくされた日本一。
マジックの完成形と謳われ、最高の花道で監督を勇退した木内は、07年秋に常総学院の監督として復帰した。そして11年、完全にユニフォームを脱いだ。
いま思う「先見の明」
甲子園40勝の名将が一線を退いてからも、高校野球では絶対エースの存在が際立っていた。11年の日大三・吉永健太郎、12年の大阪桐蔭・藤浪晋太郎、13年の前橋育英・高橋光成。それでも木内は、自分のスタイルを疑うようなことはなかった。
「自分のチームで球が速いピッチャー持ってたら勝てないって言ってたんすよ、私。だから打ちづらいピッチャーをひとりは持ってっていう。もう、ピッチャーひとりで勝てる時代は終わったんです。だって甲子園、40度くらいになるんだもん。外出を控えてくれ、屋外の運動を控えてくれって世の中言ってんのに、あのクソ暑いところでやるんですから」
継投が嫌いだと豪語していた指導者が見据えていた未来。がははは! 笑い飛ばしながら話していた生前の木内が、蘇った。
〈「20年前の決勝でダルビッシュ撃破」編へつづく〉
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