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「夜遊び朝帰りが日常」「決起ディナーで罵倒合戦」も…なぜ「90-91のサンプドリア」はサッカー史最大級の番狂わせを起こせたか
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![弓削高志](https://number.ismcdn.jp/mwimgs/f/0/-/img_f0322fcff461573562ec362ae5a289399973.jpg)
弓削高志Takashi Yuge
photograph byAlessandro Sabattini/Getty Images
posted2023/01/13 11:02
![「夜遊び朝帰りが日常」「決起ディナーで罵倒合戦」も…なぜ「90-91のサンプドリア」はサッカー史最大級の番狂わせを起こせたか<Number Web> photograph by Alessandro Sabattini/Getty Images](https://number.ismcdn.jp/mwimgs/1/c/700/img_1c9edc48c9f1aa29a0110644a0d23efd358727.jpg)
90年代初頭のサンプドリア。マンチーニ、ビアッリ、パリューカらまさに多士済々のメンバーがそろった魅惑のチームだった
石油商として財を成した彼が、セリエBに沈んでいたクラブを買収したのが79年のことだ。会長となった1年目に選手の半分を、2年目にもう半分を入れ替えた。会長自らが手を下してサンプを強豪に育て上げようとしたのには理由がある。
マントバーニの出身は首都ローマだが、ビジネスで成功を収めるうちに愛着を抱いたのは20代から住み着いた港町ジェノバだった。ただ、彼がどれだけ地元の人びとに愛されたいと願っても、出身地への帰属意識が強いイタリアで余所者が受け入れられるのは容易なことではなかった。
(60年代中盤、マントバーニは元々ライバルクラブのジェノア贔屓だったが、当時の会長が売らないと公約していた人気FWの放出に腹を立て、サンプドリアに鞍替えしたという説がある)
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身も心もジェノバの人間になろうと決意したマントバーニは、すでに歴史も地盤もある古豪ジェノアではなく、1部と2部を行き来するエレベータークラブに過ぎなかったサンプドリアを強豪に生まれ変わらせることこそ自分の本懐だと考えた。
会長との“タイマン面談”で託される使命とは
本業の傍らクラブの事務所に居場所を見つけた彼は、73年から3年間、広報を務めながらサンプに関するあらゆる報道に目を通し、論調や採点傾向をすべて記憶した。石油ショックに乗じて巨額の富を築き上げると、79年夏、満を持してサンプドリア会長の座に就き、国内の若手有望株を次々に集め始めた。
80年入団のDFルカ・ペッレグリーニを皮切りに、82年にFWマンチーニ、翌年のDFビエルコウッド、84年にはDFモレノ・マンニーニとFWビアッリが加わり、チームは次第に骨格を固めていった。86年にはプリマベーラにGKパリューカが、また底抜けに陽気なベテランMFトニーニョ・セレーゾ(元鹿島アントラーズ監督)も加わった。
20歳で入団したビアッリは後年、マントバーニ会長の熱意について語ったことがある。
「サンプドリアへ入団する新人は全員、会長と一対一で面談する。そこで会長から仕事以上の“使命”を託されるんだ。我々は皆、都会のビッグクラブに一泡吹かせるという“使命”のために戦ったんだ」
86年には、ユーゴスラビアの名将ブヤディン・ボスコフを新監督に招聘。フェイエノールトやレアル・マドリーでもタイトルを獲得した百戦錬磨の名伯楽は、若い選手たちを息子のように導き悟し、まとめ上げた。
ベーシックなマンマークの4-4-2で伸び伸びとプレーするサンプドリアは着々と力をつけ、88年、89年とコッパ・イタリアを連覇。さらに89-90年シーズンにはベルギーの名門アンデルレヒトを破り、UEFAカップウィナーズカップで優勝する快挙まで達成した。
マラドーナ封じに成功「お前は超人ハルクか」
機は熟した。選手と会長の血が滾った。
W杯の余熱くすぶるイタリア半島で、90-91年シーズンは開幕した。