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「夜遊び朝帰りが日常」「決起ディナーで罵倒合戦」も…なぜ「90-91のサンプドリア」はサッカー史最大級の番狂わせを起こせたか

posted2023/01/13 11:02

 
「夜遊び朝帰りが日常」「決起ディナーで罵倒合戦」も…なぜ「90-91のサンプドリア」はサッカー史最大級の番狂わせを起こせたか<Number Web> photograph by Alessandro Sabattini/Getty Images

90年代初頭のサンプドリア。マンチーニ、ビアッリ、パリューカらまさに多士済々のメンバーがそろった魅惑のチームだった

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弓削高志

弓削高志Takashi Yuge

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Alessandro Sabattini/Getty Images

 セリエA黄金期に活躍した名FWジャンルカ・ビアッリが、58歳の若さでこの世から去った。がんに侵された彼の人生の向き合い方、そしてビアッリらがイタリアサッカー史に残る「大番狂わせ」を達成した伝説について振り返る(全2回の2回目/#1へ)

 1990年の夏、自国開催のワールドカップを終えたばかりのイタリアには国家的イベントの余韻が残り、優勝を逃したとはいえバカンスに興じる人々の顔は晴れやかだった。

 だが、サンプドリアGKジャンルカ・パリューカは、内心穏やかでいられなかった。憤っていた。

「大会に招集されたのに1試合も使ってもらえなかった。俺だけじゃない。うちから呼ばれた仲間も皆、ろくに出番を与えられなかった」

 当時23歳だった若き天才守護神同様、クラブ自慢のファンタジスタだったFWロベルト・マンチーニ(同25歳)も出場機会ゼロ。DFピエトロ・ビエルコウッド(31歳)とFWジャンルカ・ビアッリ(25歳)の両者はそれぞれ3試合に出場したが、代表のエースだった後者は無得点に終わり、後ろ指を刺された。米国戦でのPK失敗に加え、控えだったFWサルバトーレ・スキラッチが大会得点王として脚光を浴びたために、ビアッリは日陰者扱いされた。

 カルチョの国に生まれた男として、自国開催のW杯という一世一代の晴れ舞台で満足にプレーする機会を与えられなかったことは、例えようのない屈辱だった。

 後年、代表監督となったマンチーニは語っている。

「失望は大きかった。あのときの私たちにはすぐに何か大きなものに挑戦して、人生を仕切り直すことが必要だった」

 W杯で負った屈辱を晴らすに値するもの。

 目指すはセリエA優勝、“スクデット”しかなかった。

90年代初頭のセリエAは超・戦国時代だった

 90-91年シーズンの優勝候補筆頭はインテルだった。90年のバロンドール受賞者ローター・マテウスを筆頭に大砲ユルゲン・クリンスマン、仕事人アンドレアス・ブレーメとW杯を制したばかりのドイツ代表軍団にアッズーリの正守護神ワルテル・ゼンガが守りを固める。率いるは名将ジョバンニ・トラパットーニだ。

 対抗馬はオランダ・トリオを擁し戦術革命家アリゴ・サッキ率いるミラン。前年にUEFAチャンピオンズカップを2連覇し、トヨタカップも制した彼らは史上屈指の最強チームとすらいえた。

 常勝軍団ユベントスは、フィオレンティーナの天才ロベルト・バッジョを獲得し、W杯得点王スキラッチと捲土重来を期す。当然、ディエゴ・マラドーナ率いる前年王者ナポリも虎視眈々とスクデット連覇を狙っていた。

 伏兵も侮れなかった。古豪ジェノアにはチェコスロバキア代表の10番MFトーマス・スクラビーが入団し、離島クラブのカリアリでさえ仏リーグ前年MVPエンツォ・フランチェスコリを迎えた。MFフランチェスコリもウルグアイ代表で10番を背負うエースで、イタリア中の地方クラブにワールドクラスが氾濫していた。

 一国のリーグ戦と呼ぶにはあまりに眩しく、あまりに過剰だった。世界中のスーパースターたちが週末ごとに激突する狂乱のハイエンド・リーグ。それが当時のセリエAであり、そこで優勝するということはサッカーを愛する者にとって究極の夢に他ならなかったのだ。

石油商の金満会長が夢見たスクデット

 サンプドリアの会長パオロ・マントバーニにとっても、スクデットは生涯をかけた大願だった。

【次ページ】 会長との“タイマン面談”で託される使命とは

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