Number World Cup ExpressBACK NUMBER
長谷部の充血した瞳、ビッグマウス本田の横顔、聖地ブラジルで日本代表の「魔法がとけた日」
text by
近藤篤Atsushi Kondo
photograph byAtsushi Kondo
posted2022/11/07 11:00
ブラジルW杯でキャプテンとしてチームを鼓舞し続けながらも1分2敗のグループ最下位に終わり、目に涙を浮かべる長谷部
もちろんFIFAにはFIFAの、たまごカステラ屋にはたまごカステラ屋の事情がある。だからそれは間違っていることではない。でも、たまごカステラが600円になってしまうと、そこに集まる人たちも変わってしまって、僕はどちらかというと一皿300円だった頃に集まってきていた人たちを眺めたり撮ったりするのが好きだった、ということだ。
それが、W杯はもういいかな、と距離をとり始めた理由だった。
聖地での開催と新たな日本サッカー
ところが、2007年10月、FIFAは2014年のW杯をブラジルで開催することに決める。
1950年代から80年代にサッカーという魔法にかかってしまった人間にとって、ブラジルという大地はサッカーの「聖地」だ。世間では一般的にサッカーの母国は「イギリス」ということになっているが、産みの母がイングランド人ならば、育ての親はブラジル人だ。仮にサッカー自身に「君のお母さんは誰?」と聞いても「ブラジルです!」と答えるだろうと思う。それくらい、サッカーというスポーツ、あるいは文化は特に1960年代以降、ブラジルという国と共に魅力を増していった。
そのブラジルでW杯が開催される!
加えて、僕の人生にとってのブラジルは、アルゼンチンで暮らしていた20代の頃、何度も何度も通い倒した土地でもある。今考えると信じられないことだが、当時お金のなかった僕はブエノスアイレスから長距離バスに乗り、およそ32時間かけてサンパウロやリオデジャネイロでのサッカーの試合を撮影しに出かけていた。三泊四日の取材で車中二泊、そんな旅を繰り返した。
当時世界最大のスタジアム(収容人員20万人!)だったマラカナンスタジアム、やたらとサッカーの上手な麻薬の売人、日本からやってきてまだ間もなかったカズという名の少年、あるいはサントスの浜辺でビーチサッカーをやりすぎて足の裏の皮がべろっとむけたこと。そんな素敵な思い出だらけの国でW杯が開催される、これはもう参加しないわけにはいかない。
あともう一つ、僕がブラジルでのW杯に参戦したかった理由は、自分の国の代表チームにあった。
本田圭佑という異端児の出現とともに始まった日本サッカーの新たなムーブメントは、この大会で一つのピークを迎えそうな気がしていた。イタリア人監督ザッケローニが目指すサッカーは日本人に向いているように思えたし、見ていておもしろいサッカーでもあった。
弱者が強者を倒そうとする時、一番簡単なのは牡蠣のように黙々と自軍のゴールを守り、一瞬の隙をついてカウンターを決めるかセットプレーを決めるかだ。実際そういうスタイルに大会直前に変更したことで、南アフリカ大会の日本代表は番狂わせを起こすことができていた。