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「勝てば1万円、負ければ12万円」「負けそうになるとイカサマも…」“賭け将棋”で生活費を稼いだ真剣師とは何者か? 

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小島渉

小島渉Wataru Kojima

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posted2022/08/14 11:00

「勝てば1万円、負ければ12万円」「負けそうになるとイカサマも…」“賭け将棋”で生活費を稼いだ真剣師とは何者か?<Number Web> photograph by Getty Images

賭け将棋で生活費を稼いだアマチュア「真剣師」とはどんな男たちだったのか?

 互いの実力が拮抗しているなら賭け金は同額だが、実力差がある場合は差をつける。「倍層」だと、例えば強いほうが勝てば1万円なら、弱いほうは2万円を相手からもらう。9局で勝負するなら上位者が6勝、下位者が3勝でトントンとなる。先述した真剣の極意を踏まえれば、上位者は儲けを出すために7勝か8勝がノルマとなるだろう。ちなみに大田学は全国大会の大阪府代表に12倍層の勝負(大田が勝てば1万円、相手が勝てば12万円)を持ち掛けられて、13戦全勝したことがあるという。棋士から「プロの六段でも指せる」といわれ、その実力は折り紙付きだった。

 強豪同士の大勝負となれば、自然と賭け金は跳ね上がる。万札が飛び交い、乗り手(スポンサー)もついた。真剣師と金主が賭け金と儲けをどう配分するかはケースバイケースだが、金主が賭け金をすべて負担し、儲けを折半するパターンもあった。

 真剣師は勝負強さに加えて、人を惹きつける魅力がないとスポンサーを獲得できなかっただろう。負ければ金どころか金主の信頼を失って、生活が立ち行かなくなった。天才同士がしのぎを削る棋士の世界とは違った厳しさが、真剣師の界隈にはあったと思われる。

「東海の鬼」花村元司

 所詮、アンダーグラウンドの世界だと侮るなかれ。「東海の鬼」の異名があった花村元司九段(1917~1985年)はもともと真剣師だった。その棋風は「妖刀」とも呼ばれ、鬼手を連発する指し口はプロ転向後も大舞台で通用した。タイトル挑戦は第15期名人戦など4回、棋戦優勝は3回。名人戦挑戦を争う最高峰のリーグ・順位戦A級に16期在籍し、第36期に60歳でA級復帰を成し遂げた。これは全クラスを通じて、最年長昇級記録である。弟子に森下卓九段、深浦康市九段、窪田義行七段らがいる。後に取り上げる「プロ殺し」小池重明アマとは、倍層(花村勝ちは1万円、小池勝ちは2万円)で指して4勝2敗。小池が苦悶の形相で指して終了後にぐったりしていたのに対し、花村は終始、ひょうひょうとしたままで疲れを感じさせなかったそうだ。

 花村の生まれは静岡県浜松市で、15歳で将棋と囲碁にのめり込み、街中で行われていたアマチュアの縁台将棋で腕を磨いた。当時から賭け将棋で強くなったようで、著作の『たちまち強くなる ひっかけ将棋入門』(1979年、KKベストセラーズ)には、色々なテクニックが紹介されている。それは盤上の技術だけにとどまらない。相手が不当に段級を低く申告してきてハンデがきつくなったときは、イカサマも使ったという。駒台を使わずに持ち駒を手に持ったまま指していることが多かった時代なので、着物の懐に余分な駒を忍ばせておいた。また相手玉を一気に詰ますとき、持ち駒に金が足りなかったときは盤上にある玉を裏返して代わりに打ったこともあった。玉と金だけは駒の裏が無地なので、玉将をひっくり返して打てば金だとごまかせるというわけだ。プロになってからアマチュア向けの書籍でそのことを記したのは、花村流の茶目っ気だろう。何より、庶民の生活に将棋が根付いていた時代の話だと思うと、ノスタルジーさえ覚える。銭湯や床屋、ご近所の軒先に、手垢にまみれた駒と盤が置かれ、互いに口三味線を飛ばし、野次馬の茶々を受けながら指していた光景が浮かぶ。

【次ページ】 プロ棋士よりも真剣師のほうが稼げた?

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