Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
史上唯一“芦毛のダービー馬”ウィナーズサークルは引退後に…? “東大”で過ごした幸せな晩年「学生さんにとってもありがたい馬でした」
text by
石田敏徳Toshinori Ishida
photograph bySankei Shimbun
posted2022/05/31 17:00
1989年、茨城産、そして芦毛の馬として初めて日本ダービーを制したウィナーズサークル。栄光を掴んだ後、王者はどのような人生を歩んだのか
'75年には生産馬のメイセイヒカリが重賞の京都4歳特別に優勝。'82年にはタケデンフドーが皐月賞で4着に食い込んでダービー初参戦を果たし、'96年の皐月賞にもマキノプリテンダーが出走、「東大卒のエリートホース」と話題を集めた。それらはすべて、譲り受けた種牡馬と繁殖牝馬の配合によって生まれた馬、同時に市場で売買された市場取引馬でもある。せりで生産馬を買ってもらうなど、栗山牧場との結びつきは昔から深く、そんな縁もあってウィナーズサークルは東大牧場へやって来た。
「研修に来る学生さんにとってもありがたい馬でした」
「その前にいたモンテプリンス('82年天皇賞・春1着)は気性が激しくて、私では扱えなかったんです。新しい種牡馬が来ると聞いて『怖い馬かな、また触らせてもらえないかな?』と思っていたら、意外に大人しくて私でも御することができた。当時、臨床経験は浅かったのですが、歯を削る練習とか、彼にはずいぶん協力してもらいました。馬との接し方は彼に教わりました」
そう話すのは、主に面倒を見ていた遠藤麻衣子さん。横で聞いていたベテラン職員の鈴木一美さんが「ダービー馬をそんな風に使わせてもらったんだからな」と笑った。
鈴木さんはウィナーズサークルを「種付けも上手かった」と振り返る。
「待てといえば待つし、動いてほしいときは動いてくれる。研修に来る学生さんにとってもありがたい馬でしたね」
'07年を最後に種付けから引退した後は後輩種牡馬のアテ馬として貢献。東大牧場が競走馬の生産から撤退('11年限り。現在は乗用馬を生産)した後も、採血や装蹄の実習などで貴重な役割を果たした。大人しくて扱いやすい一方、自己主張をするときはする。初心者向けの生ける教材としてはうってつけだったのだ。
そんなウィナーズサークルが放牧地で倒れたのは2年前(編注:2016年)の5月末、まさにダービーの頃だった。このときは人力と重機を使って馬房へ運び、奇跡的に自力で起き上がれるようになったものの、高齢(30歳)と夏の暑さには勝てず、8月に馬房内で再びダウン。手厚いケアを受けながら、故郷の茨城県で幸せな晩年を送った“オンリーワンのダービー馬”は同27日、天寿を全うして静かに息を引き取った。