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ぶら野球BACK NUMBER
「彼女いない歴〇年」“残念”な流行語が生まれた日…恋人なし男女のお見合いパーティーで視聴率21%、とんねるずの早すぎたリアリティショー
posted2022/10/13 11:00
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
BUNGEISHUNJU
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「部室のノリ」で視聴率20%超え
その快進撃はまさに社会的な事件だった。『週刊現代』89年3月4日号では若者のとんねるず人気を「“新・笑いの帝王”は『大ドンデン返し』『ツーショット』『仮面ノリダー』と流行語製造機と化した」と伝えている。もちろん「ジャリたちの教祖とんねるずドタバタが大ウケです」とオヤジたちからの斜めの視線も忘れずに。ビデオリサーチ2月第2週の視聴率は『とんねるずのみなさんのおかげです。』が27・7%。『ねるとん紅鯨団』も土曜深夜では異例の21・3%を記録して、『志村けんのだいじょうぶだぁ』の20・1%、『風雲!!たけし城』の18・8%といった大御所たちの看板番組を圧倒。深夜ラジオでは『とんねるずのオールナイトニッポン』が聴取率ぶっちぎりトップを独走した。平成が始まったばかりの日本列島をまだ20代中盤の若手コンビが破竹の勢いで疾走していたわけだが、彼らふたりはお笑いだけではなく、スポーツを世の中に広げる伝導師のような役割も担っていた。
帝京高校の野球部だった石橋貴明とサッカー部出身の木梨憲武。高校時代に石橋がサッカー部の部室にやって来てギャグをかまして爆笑をさらい、やがて木梨と組んで視聴者参加型のテレビに出たことからコンビの歴史は始まった。結成は1980年だが、昭和の時代は男性アイドルといえば野球対決企画が盛んで、場を盛り上げることはもちろん20代で運動神経がよく体力も有り余っていたとんねるずは、その対戦相手としても大人気だった。85年、横浜スタジアムに2万7000人の観衆を集めてチェッカーズと激突。87年には雑誌『平凡』の企画で西武球場にて近藤真彦とスーパーベースボール対決と獅子奮迅の活躍ぶりだ。しかも、石橋はその合間に雑誌『月刊プロ野球ニュース』でコピーライターの糸井重里と「ファミコン野球スポーツ」で戦うフットワークの軽さだ。とんねる、とんねる、雨、ねるとん……すでに野球企画といえば彼らをブッキングすれば間違いなし的な雰囲気すら感じさせる往年の権藤博ばりの連投で成り上がり、89年11月7日には開業2年目の東京ドームで狂乱の5万人コンサートを敢行するわけだ。
サッカー冬の時代を救った“PK対決”
さて、当時の日本はまだJリーグ開幕前でサッカー人気は低迷していたが、そんな中で木梨はサッカーの魅力を世の中に発信し続けた。86年4月に国立競技場で行われた“第10回サッカーフェスティバル”では同じく高校のサッカー部で鳴らした明石家さんまとともに招待試合に出場。といいつつ、当日は入場無料ながら2万人弱の観客数という事実に80年代のサッカー冬の時代を痛感させる。