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野村克也「新聞配達をしながら、一生貧乏と戦う覚悟をしていた…」なぜノムさんは“シダックス時代が一番楽しかった”と振り返ったのか?

posted2022/06/02 11:03

 
野村克也「新聞配達をしながら、一生貧乏と戦う覚悟をしていた…」なぜノムさんは“シダックス時代が一番楽しかった”と振り返ったのか?<Number Web> photograph by JIJI PRESS

2002年11月~2005年11月まで3年間、シダックス野球部監督を務めた野村克也。写真は2003年、都市対抗野球東京代表決定戦の祝勝会で沙知代夫人と

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加藤弘士

加藤弘士Hiroshi Kato

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JIJI PRESS

誰もが「ノムさんは終わりだ」と思った――。2001年に阪神の指揮官を退いた後、野村克也にはほとんど触れられていない「空白の3年間」がある。社会人野球・シダックスでの日々だ。
当時の番記者が関係者の証言を集め、プロ野球復帰までに迫ったノンフィクション『砂まみれの名将 野村克也の1140日』(新潮社)が5刷とベストセラーになっている。

2005年末、野村克也が涙ながらに別れを告げたシダックス。同書から、ノムさんの“教え子”たちのその後を紹介する(全2回の2回目/前編へ)。

なぜシダックス時代が一番楽しかったのか?

 野村は京都・峰山高から1954年、契約金0円のテスト生で南海に入団した。

 高校時代はプロのスカウトから注目を浴びたことがない、無名の雑草捕手だった。前にも記した通り、「打撃の神様」川上哲治に憧れる巨人ファンだったが、当時の巨人は野村より1歳年上で、甲子園でも活躍した捕手のホープ・藤尾茂が入団したばかり。進路をプロ野球に定めると、選手名鑑を眺め、イキのいい若手捕手がいる球団は希望チームから除外していった。競争を避けたのではない。極貧に耐え、女手一つで育ててくれた母・ふみさんに楽をさせてあげたかったのだ。大金を稼ぐためには、早く一軍で活躍できる球団に入る必要があった。有益な情報を生かす思考は、この頃から発揮されていた。

 どうやら広島と南海は捕手が高齢化しているようだ。新聞で南海の入団テストの告知を見つけると、野球部の顧問教師に汽車賃を借りて大阪球場へと向かい、受験した。

「肩が弱くてな。遠投のテストでは先輩が『もう少し前で投げていいよ』と言ってくれて、合格できたんだ」

 以上は生前の野村から何度か聞いた話である。エピソードの後にはこう付け加えた。

「子どもの頃は雪の朝、新聞配達をしながら、一生貧乏と戦わねばならないと覚悟していた。プロ野球選手を夢見たのは、絶対に金持ちになりたかったからだよ」

 なぜ野村はシダックスでの日々を「あの頃が一番楽しかった」と振り返ったのだろうか。

 野村がプロ野球の世界へと飛び込み、必死に努力を重ねたのは「お金」のためだった。

 勝たなければ給料は上がらない世界だ。情は捨てた。相手のクセを盗み、データを重視することで、成功の確率を1%でも上げるべく研鑽を重ねた。プロ野球に革命を起こした「ID野球」は勝利のための「武装」であり「鎧」だった。

 そんな知将が唯一お金のためではなく、ただ好きな野球を心から楽しみ、魂を燃やした日々が、この3年間だった。

 成功や名声をつかむための手段だった野球。それを突き詰めた結果、つまずいた男に、野球の神様が原点でもある「楽しさ」をプレゼントした3年間だったと言えるのではないか。

 だからこそ、野村は再生できた。

「東大を卒業したぐらいの価値がある」

 ひたむきに鍛錬を重ねる社会人野球の選手たちを眺めながら、野村は言った。

【次ページ】 「東大を卒業したぐらいの価値がある」

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