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「Jリーグ史に残るブラジル人と敏腕代理人+中島翔哉ら日本人」が“ポルトガルの2部常連”を変革した真相とは〈ポルティモネンセ史〉
posted2022/05/19 11:02
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Hiroaki Sawada
日本人選手が多く在籍するポルティモネンセ。そのクラブの歴史についてはあまり知られていないのではないか。
ポルティモネンセ・スポルティング・クラブは、1914年8月14日、ポルトガル南部の町ポルティモンで、当初、フットボールのアマチュアクラブとして創設された(「ポルティモネンセ」とは、「ポルティモンのもの、人」を意味する)。つまり、クラブとして108年の歴史を有する。
1913年、地元の学生が英国留学から帰国した際にフットボールの用具とルールブックを持ち帰った。そして、友人らにこの新しいスポーツを伝え、彼らと一緒に楽しむ目的でクラブを設立したのである。
90年代から00年代は2部で戦っていた
彼らの多くは学生で、金銭的な余裕がなかった。ユニフォームを作る際、原色を加えると割高になるので、シャツを白と黒の縦縞、パンツを白、ソックスも白としたという(ちなみに、ポルティモン市のエンブレムは緑と白が基調で、ユニフォームの色とリンクしていない)。
その後、フットサル、バスケットボール、ハンドボールの部門も設立され、市民に広くスポーツを楽しむ機会を提供した。そして、1990年にフットサルの、2003年にバスケットボールのプロチームを併設している。
ポルトガルのプロリーグ(1部)は、1934年に発足している。
ポルティモネンセは1937年に地域リーグで優勝し、1953年、2部リーグに初参加。1975-76年に2部を制覇し、悲願の1部昇格を成し遂げた。しかし、わずか2シーズンで2部へ降格。その後は、1部と2部の昇降格を繰り返した。
クラブ史上最高の成績は1984-85シーズンの1部5位で、翌年の欧州リーグ出場権を獲得した。結果は、1回戦でセルビアの強豪パルチザンと対戦し、1勝1敗だったが得失点差で敗退した。当時監督を務めたヴィトール・マヌエル・オリエイラは、クラブ史上最大の英雄である(2020年、67歳で逝去)。
しかし1989-90シーズン、17位に沈んで降格。以後は、2010-11シーズンを除き、2部で戦っていた。
クラブ事情を一変させたのは“Jリーグ勢”の力だった
このように1部と2部を行き来していたいわゆるエレベータークラブを、2000年代後半からブラジル人と日本人が一変させる。
最大の立役者が、1990年代からエメルソン(元コンサドーレ札幌、川崎フロンターレ、浦和レッズ)、フッキ(元川崎F、札幌、東京ヴェルディ)ら100人を優に超えるブラジル人選手のJリーグへの移籍を手がけた敏腕代理人テオドーロ・フォンセッカ(通称テオ)である。